女の勘と矛盾
「アイリス」
旦那様はわたしを見つけるなり、仕事の手を止めて駆け寄ってくれた。パッと見普段とあまり変わらないけれど、いつも陶器みたいに真っ白で綺麗な旦那様の肌が、少しだけくすんで見える。心なしか目の下に薄っすらと隈が見えるし、寝不足の影響が出てるんだろうなぁなんて思った。
「来てくれたのか」
「はい。お仕事の邪魔にならないかなぁって、少し心配だったんですけど」
そう言って旦那様の顔を覗き込んだその瞬間、わたしの心臓はキュンと高鳴った。旦那様は本当に嬉しそうに目を細め、首を横に振っている。わたしを抱き上げて、小さな声で「会いたかった」って言う旦那様は、あまりにも可愛くて、愛しくて堪らなかった。
「急に帰れなくなってすまなかった。本当は自分で直接伝えたかったんだが」
「いえ。ニコラス達が様子を見に来てくれましたし大丈夫です」
いつもよりも強く、旦那様の匂いを感じる。ギュッて抱き返すと、『旦那様に会えたんだ』って実感できて、すごくすごく嬉しかった。
「リアン」
わたしのものとは違う、凛とした女性の声が部屋に響く。その時になってようやく、わたしはここまで連れてきてくれた女性のことを思い出した。
明るい部屋の中で改めて見る女性は、シルバーピンクの長い髪に、切れ長の瞳、魅惑的なボディーを持った美しい竜人で。前世で『成人しても子どもっぽい』って言われ続けたわたしとは、正反対のタイプだった。
「ミモザ、いたのか」
旦那様はそう言いながら、わたしをそっと床に降ろした。
「なによ。私がその子たちを連れてきてあげたのに『いたのか』は無いでしょう?」
ミモザさんは困ったように笑いながら、旦那様の肩をポンと叩く。それがあまりにも当たり前というか……すごく親し気な感じで、わたしの心臓がキュッと軋んだ。
「この子達ったら薄暗い庁内を灯りもつけずに歩いてたのよ? 怖そうにしてたし、保護して正解だったと思うんだけどなぁ」
「そうか……ありがとう。すまなかったな」
「どういたしまして!」
旦那様は少しだけ目を丸くしたかと思うと、穏やかな笑みを浮かべている。対してミモザさんはとっても嬉しそうな笑顔だ。何とか空気を変えたくて、わたしは平常心を装ったまま、持参したリュックサックを開いた。
「あの、旦那様に差し入れをお持ちしたんです。お食事とか、休憩とか、取れているか心配だったから」
「ありがとう、アイリス。ロイも。疲れただろう? おいで。一緒に休憩しよう」
旦那様はそう言って、お仕事用のデスクから少し離れた所にあるミーティングスペースを指さした。
「あら。リアンったら、そんなことしてる余裕あるの?」
「問題ない。この二日間働きづめだったんだ。少しぐらい休憩を取った方が効率も上がる」
何気ない問い掛けだけど、やっぱりわたしは旦那様の邪魔をしているんじゃないかなぁって思えてきて、胸が痛い。だけど、昨夜のアクセスの言葉を思い出しながら、わたしは必死に首を横に振った。
「それじゃぁリアン、書類、ここに置いとくわよ」
「ああ」
ミモザさんの呼びかけに、旦那様はそう答えた。さり気ないアイコンタクト。そんな些細な仕草にすら嫉妬心を覚える自分は馬鹿みたいで。
だけど、何となく、何となーーくだけど、二人だけの空気というか、信頼感を感じて、それが堪らなく気になった。
(それに、ミモザさんが旦那様を好きなのは間違いないし)
女の勘っていうのは馬鹿にならない。ミモザさんの瞳は、恋する女性のものだ。断言できる。
だけど、対する旦那様がどう思っているのかは、わたしにはよく分からない。特別好いているわけでも、嫌っているわけでもないように見えるけど、あの縄張り意識の強い旦那様が触れることを許してるんだもの。もしかしたら、わたしには見せないようにしているだけで、本当はめちゃくちゃ好きだったりするのかもしれない。
(って! そんなことばっかり考えてちゃダメ!)
心の中に巣食う毒みたいな感情を必死で追い出しつつ、わたしは旦那様を見上げた。折角旦那様に会えたんだもの。嫉妬とかくだらない妄想に勤しむ時間があったら、旦那様を目に焼き付けるべきだ。
「ん? どうした?」
旦那様はそう言って、わたしのことをもう一度抱き上げた。旦那様と同じ視界。遮るものが無くて、広くて。それが何だか嬉しくて悲しい。
きっと恋人ならば、こんな風に抱き上げられることは無い。幼子や愛玩動物だからこそ得られる何かって、あると思う。
『アイリスはアイリスだろう』
いつか、旦那様がそう言ってくれた時のことを思い出す。
いつだってわたしは先を急いでいる。旦那様の隣に立ちたいって思いながら、全然足りなくて。けれど、そんな自分だからこそ抱き締めてもらえる、その幸福に甘えている。矛盾だらけの自分。そんなこと、自分が一番分かってる。
(でも、大好きなんだもん)
できるだけたくさん触れていたい。抱き締めていたい。その願いが叶うなら、矛盾なんて全部呑み込んでしまう。
旦那様をギュッて抱き返しながら、わたしは目頭が熱くなった。
「あっ、そうだ。リアン」
その時、部屋から立ち去ろうとしていたミモザさんが、再びヒョイッと顔を見せた。旦那様は何も言わないまま、小さく首を傾げてミモザさんを見ている。わたしも一緒になってミモザさんを見た。
「また……後でね」
ミモザさんはそう言って、なんとも妖艶な笑みを浮かべた。ほんのりと紅く染まった頬に、切なげに潤んだ瞳。わたしの心がズタズタになったのは言うまでもない。