旦那様と朝
温かい。すごくすごく温かいなぁって思いながら、わたしは目が覚めた。
身体を受け止め包んでくれるフワフワした存在はお布団だなってすぐに分かったけど、うなじを支える固くて温かな何かは目を瞑ったままじゃよく分からない。だけど、お布団なんかよりずっと大好きだなぁって思った。いつまでもスリスリして滅茶苦茶に縋りついていたくなる。
そんなことを思っていたら、唐突にわたしの身体が抱き締められた。すっぽりとわたしを包み込んでしまう大きな身体。背中をポンポンと撫でてくれる大きな手のひら。
(あぁ、わたしはこの人を知っている)
それはもう随分と前。今のわたしの身体じゃなくて、魂の記憶なんだと思う。
幸せで、ただひたすらに幸せで。心の底から湧き上がってくる、そんな愛しさをわたしはちゃんと覚えていた。
「旦那様……」
そう口にしながら、わたしは目の前の温もりを力いっぱい抱き締めた。
「起きたのか?」
頭上で響くその声は、確かに旦那様のものだった。わたしはコクコクと頷きながら、旦那様の広い胸に顔を埋める。ミントみたいな爽やかな香りがして、それがすごく愛しくて。大きく息を吸い込んで旦那様を堪能する。
「身体は? まだ痛むか?」
旦那様はそう言ってわたしを座らせた。まだ離れたくない、なんて我儘を言わなくても、旦那様はわたしを抱き締めたまま。膝の上に座らせて、昨日怪我したばかりの足をまじまじと見る。
「痛みはもう、ありません」
首を横に振りながらわたしは答える。すると、旦那様は言葉にするのが憚られるほどの神々しい笑顔で、わたしに向かって微笑んだ。
(あぁ~~~~~~、カッコいい! 素敵! もう、大好き!)
声に出せないまま悶絶して、わたしは胸をときめかせる。今ここにカメラが有ったら、絶対、絶対写真に収めていたのに!持ち歩き用、観賞用、保存用でいっぱいいっぱい現像したのに!
だけど、残念ながらここは異世界。わたしの知る限り、そんな文明の利器はない。魔法の使える魔族なら似たようなことが出来るのかもしれないけど、わたしは何の力もないただの人間に転生してしまった。それが、とてつもなく悔しい。
「ロイ、あれをここに」
「はい、リアン様」
その時、旦那様が知らない誰かの名前を口にした。姿が見えないままに返事が聞こえて、ややして現れたのは薄茶と白の毛並みが綺麗な小型犬だった。ロイは頭に乗せたお盆を旦那様に差し出し、恭しく頭を下げる。
(ロイちゃんかーー)
前世で旦那様と一緒に飼っていた犬を思い出して、何だかとっても微笑ましい。わたしの視線に気づいたロイは、人懐っこい表情で笑った。可愛いなぁ。一緒に外を駆けまわってモフモフしたい。
「アイリス」
その時、旦那様がコップに入った水と、小さな丸い粒を手にわたしを呼んだ。
「これを飲みなさい。おまえは昨夜、血を流し過ぎた」
「はい、旦那様」
前世で言う造血剤みたいなものかなぁと思いつつ、わたしは旦那様に向かって手を差し出す。けれど、旦那様は丸薬をわたしに渡そうとしなかった。首を傾げていると、ゆっくりと旦那様の手が近づいている。丸薬を摘まんでいる方の手だ。
(もしや! もしやこれは、『あ~~ん』待ち⁉ )
旦那様は無表情のまま、じっとわたしのことを見つめている。わたしの唇のすぐ側に、旦那様の指があって、心臓がドキドキと高鳴って堪らない。いや、正直嬉しすぎて、ありがとうございます!って感じなんだけど、良いのかなぁ?なんて思ってしまう。
そうこうしているうちに、旦那様の指がわたしの唇に触れて、わたしは思わず口を開けた。小さな丸薬がわたしの舌の上に載って、それがとっても苦いんだけど、心は物凄く甘い。それから旦那様は、わたしにそっとコップを手渡した。
(なーーんだ、水は口移ししてくれないのか)
そんな邪なことを考えながら、わたしはコップを受け取って水を飲む。
現世のわたしは十歳。身体の年齢に合わせて、前世よりも少しばかり精神が幼くなってる気はするけど、そういう知識だけは衰えていない。
いや、実際に十歳のわたしに旦那様がそういうことしたら問題あるのかもしれないけど、わたしは前世で旦那様の妻だったんだし。現世でも旦那様が大好きだもん。記憶は残ってないみたいだけど、旦那様にもわたしを好きだって思って欲しいもん。
「ちゃんと飲めたのか?」
「……はい」
問いかけに頷くと、旦那様は自分の服の裾でわたしの口元を拭った。優しく労わるように拭いて、わたしの頭を撫でて、それからまた微笑んでくれる。些細なことでこんなにもキュンキュンときめく心臓に、やっぱり口付けなんてされなくて良かったかもしれない、と思った。こんな小さい身体で耐えられそうにないもの。今でもいっぱいいっぱい。めちゃくちゃ幸せだし。
「俺はこれから出掛ける。ロイ、あとのことは頼んだぞ」
「え?」
「畏まりました、リアン様」
旦那様は小さく息をついてから、わたしをベッドにおろして立ち上がった。
「行っちゃうの?」
わたしは旦那様を見上げながらそう呟いた。
折角会えたのに。もうさようならだなんて。
(っていうか、わたしこれからどうしたら良いんだろう?)
両親と暮らした家に戻ったところで、一人で生きて行くことは難しい。そりゃぁ前世の記憶が戻った今、家事全般は自分でこなすことはできるけど、十歳の子供ができる仕事なんて高が知れている。前世みたいに、この世界のどこかに孤児院があるのかもしれないけど、あてもなく探せるわけもない。
それより何より、わたしは旦那様の側に居たかった。毎日旦那様の顔を見て、笑って、幸せだなって思いながら暮らしたい。
(でも、そんなこと、お願いできる立場じゃないよね)
異種族の小さな子どもを好き好んで引き取る青年はそういないと思う。そういう趣味の人間ならばまぁ、可能性はあるかもしれないけど。旦那様はどちらかというと、子どもは好きじゃなかったし。
旦那様は目を細めて笑うと、もう一度わたしの頭を撫でてくれた。
好き。旦那様が大好き。これが最後だなんて嫌だよ。
「行ってくる」
旦那様はそう言って、部屋を後にした。