来訪者と竜の怒り
その日、学校から帰って来たわたしは、玄関を開けてすぐに感じた違和感に顔を顰めた。
(なんか……知らない香りがする)
ジャスミンみたいな華やかで爽やかな香りと、中東を感じさせるスパイシーで甘い香りが混ざって香る。どちらも甘やかな香りだけれど、女性的というより男性的な香りだ。
旦那様と言えば『ミントの香り』のお方なので、これは断じて旦那様の香りではない。因みにロイはお日様みたいな匂いがする。
「ただいま! ロイ?」
一抹の不安を感じつつ、玄関口に突っ立ったまま、わたしは声を張った。だって、わたしがこの家で過ごすようになってこの方、お客さんなんて来たことが無い。旦那様は前世でも人付き合いは良い方じゃなかったし、自分のテリトリーを荒らされることを好まない人だからだ。現世でもきっと、その傾向は変わっていない。
(どうしよう……怖くなってきちゃった)
シンと静まり返った家の中、わたしは思わず後ずさりする。するとその瞬間、後から誰かがギュッてわたしを抱き締めた。
「ひっ!」
叫びつつ、背筋がビクビクって震える。
途端に香るジャスミンの香り。滑らかな絹の布地が肌に触れて、わたしは首を大きく振る。わたしの胸の辺りにあるはずの相手の腕が何故だか見えない。触れてる感触はあるのに、実体がないなんて、まるで幽霊に抱き締められてるみたいだ。
(こんなの絶対旦那様じゃない!)
旦那様はこんな質の悪い悪戯はしないし。もしも旦那様だったら、例えどんなに違う香りを身に纏っていてもわたしには分かるもの。感触も抱き締め方も全然、違う。
抵抗しようにもパニくってて、思う様に息すらできなくて、わたしはただただ肩を強張らせる。
「だっ……だっ…………」
旦那様、って呼ぼうとしたその瞬間、わたしの前にヒョコッとロイが躍り出た。
「あぁっ、アイリス様! お帰りなさいませ」
ロイはいつも通り、満面の笑みを浮かべてわたしを出迎えてくれる。どうやら外出していたらしく、買い物かごを口に咥えてブンブン尻尾を振っている。わたしのこの異常事態はちっとも目に入っていないらしい。
「ロイ! 後! わたしの後!」
「へ?」
必死に伝えようと藻掻いてるのに、残念ながらロイには伝わらない。心臓がバクバク鳴り響いて、怖くて今にも膝から崩れ落ちそうってその時、ボスッて大きな音が頭上で鳴り響いた。
「……痛いなぁ。何するの?」
「それ以上ちびっ子を苛めるなよ、バカ」
振り向けば、そこには旦那様と同じ年ごろの男性が二人立っていた。
一人は色素の薄い黄色の髪の毛に、紫色の瞳、白と金を基調とした服に身を包んでいる。西洋と中華を足して二で割ったみたいな雰囲気の洋服で、本人もどこか中性的。頭に大きな角を生やした、所謂王子様的なイケメンだ。
もう一人は紅くて長い髪の毛をポニーテールに纏めてて、身体の線は細めだけど男性的な整った顔をしている。黒と紅を基調とした軍服っぽい服を着ていて、背中に極彩色の羽を生やした、少し強面の男性だ。
「あれ? ニコラスさまはいつの間にアイリス様の後にいらっしゃったんですか?」
ロイはそう言って、尻尾をブンブン振りながら大きく首を傾げた。
「まだまだ修行が足りないねぇ、ロイ。このぐらいの魔法は暴けるようにならないと。リアンは君を甘やかしすぎだ」
ニコラスと呼ばれた男性はそう言って魅惑的な笑みを浮かべる。と、思った瞬間、わたしはこの人に後から抱き締められて、グリグリと頬擦りをされていた。
「やっ! やめて下さいっ!」
思い切り身の毛がよだつのを感じながら、わたしは叫んだ。力いっぱい藻掻いて腕から逃れようとするのに、ニコラスはちっともわたしを放してくれない。ロイは困ったように首を傾げながら、ニコラスの足をポスポスと撫でた。
「ニコラス様、ダメですよ! アイリス様が嫌がってます!」
「えぇ? そんなことないよ。僕を嫌がる女の子なんてこの世に一人もいないんだからさ」
悪びれることなくそんなことを宣う男性に、わたしはブンブンと首を横に振る。
「ここにいますっ! さっきから嫌って言ってます!」
同じイケメンでも、旦那様とは正反対の軟派な男に、わたしはめちゃくちゃ腹が立った。
「おい、ニコラス。さっきも言ったけど、その辺で止めとけって」
紅い髪の男性が呆れ顔でそんなことを言う。けれど、ニコラスを本気で引っぺがそうとはしてくれなくて、わたしは何だか絶望的な気持ちになった。
(この人、絶対力じゃ負けないだろうに! ちょっと頭を小突くとか、忠告するとか、そんな程度しかしてくれないなんて!)
わたしはニコラスに対するのと同じぐらいの恨みを込めて、目の前の紅髪の男性を睨みつける。
男性はしばらくの間憮然とした表情でわたしたちを見つめていたが、ふと視線を上げたかと思うと、はぁぁ、と大きなため息を吐いた。思わぬ反応にわたしは目を見開く。けれど次の瞬間、ゴゴゴゴッて地鳴りみたいな大きな音が鳴り響いて、わたしの身体がグイッて抱き上げられた。
「あっ」
その瞬間、わたしは底知れない安心感に包まれた。
慣れ親しんだミントの香り。大きくて温かい胸に顔を埋めつつ、わたしは思い切りその温もりを抱き締める。
(旦那様だ!)
さっきまで感じていた不快感とは真逆の、温かくて優しくて、幸せな感覚。あまりの嬉しさに心臓がドキドキと高鳴った。
「おまえは……人が留守の間に一体なにを…………」
冷ややかで、それでいて燃えるような旦那様の声が玄関に木霊する。当然、怒りの矛先はわたしを苛めていたニコラスっていう男性だ。チラリと腕の隙間から見えたロイの表情は青ざめ、ビクビクと震えていた。
「えぇ? 最近リアンの様子が変わったって聞いたからさ。遊びに来てみたら僕好みの超可愛い女の子がいるんだもん。愛の伝道師である僕としては『愛でなきゃ!』って思うじゃない?」
何処かセクシーな声音に笑みを添えて、ニコラスはわたしの顔を覗き込もうとする。この期に及んで空気を読まないニコラスに、わたしの背筋がブルりと震えた。
「あーーぁ、言わんこっちゃない」
紅髪の男性が面倒くさ気にそう口にするやいなや、青白い炎がニコラスの周りで轟々と音を立てる。燃えるように熱い旦那様の手のひらが、『見るな』とでも言いたげにわたしの目を覆った。
「待てってリアン。少し話を……」
そう口にしたニコラスの言葉は後に続かず、成人男性のものとは思えない、情けない叫び声が玄関に木霊したのだった。




