アイリスの打診
「旦那様にお願い事があります!」
デートから帰宅するなり、わたしはそう切り出した。
旦那様はわたしの向かいに座って、キョトンと目を丸くしている。周りではロイがいそいそとお茶を用意してくれていた。
「わたしを学校に通わせていただけませんか?」
旦那様が何も言わないのをいいことに、わたしは自分の願望を口にした。
大人になりたいって自覚してからずっと考えていたこと。それは、学校に通うことだった。
現世のこの国には義務教育制度はないものの、殆どの子どもが学校に通っている。わたしも両親と暮らしている間は学校に通っていたし、やっぱり教育は必要だと思う。
大人になりたいって言いながら、ザ・こどもって場所に行くのはどうよ?って思われるかもしれないけど、人は成人年齢に達するから大人になるんじゃない。教養とか経験とか色んなものがあって、ようやく大人になれる。
前世では二十歳になって、お酒を飲んで、それで大人になったって思った瞬間もあったけど、実際は十九歳までと何にも変わりなかった。旦那様と出会って、本気で恋をして、彼に相応しい女性になろうと努力したあの日々が、わたしを大人にしたんだと思う。
「学校に行かずとも、勉強なら俺が教えるが」
けれど、旦那様はそんなことを口にした。首を傾げ、眉間にうっすらと皺を寄せてて、何だかあまり雲行きが良くない。
「それだと疲れて帰って来た旦那様に申し訳ないですし、わたしの方が日中時間を持て余してしまいます。お金は両親が残してくれている分がありますし、効率とか色々考えたら学校に通った方が断然お得です」
両親はわたしのために、ちゃんとお金を残してくれていた。旦那様がいなかったら分からなかったことだけど、二人の愛情には感謝しかない。おかげで遠慮なく、学校に行きたいなんてことを口にできる。
「だけど、ここから人間用の学校までは遠いよ。歩いたら一時間ぐらい掛かってしまう」
「大丈夫です。そのために今日、鳳族の翼を買ったんですから!」
戦利品の中から小さな羽の形をした商品を取り出しながら、わたしは微笑む。
この世界で人間に大人気の商品、それが『鳳族の翼』だ。
これを使えば、人間でも鳥みたいに自由に空が飛べるって代物で、持ち運びも簡単。その分お値段も張るんだけど、魔法万歳、と叫びたくなる一品だ。
だけど、旦那様は不機嫌そうな表情でため息を吐き、わたしを見つめた。
「――――どうして急に学校に通いたいと思ったの?」
(そんなの、あなたに釣り合う女の子になりたいからです!)
思わずそう叫びそうになったけれど、わたしはグッと言葉を呑み込んだ。
「わたしには知るべきこと、学ぶべきことがたくさんあります。大人になったら働かなきゃいけないし、そのためには今から勉強して、人と沢山話して、ちゃんと社会に通用する人間にならないと!」
それは十歳の子どもが口にするには立派過ぎる言い分かもしれないけど、前世の記憶があるわたしの紛れもない本心だ。
「別に働かなくても……アイリスのことは俺が一生養うよ?」
その瞬間、心臓からズキュン!って音がした。
旦那さまったら!そんな神々しい笑顔で。そんな可愛らしい表情で。
(子どもを揶揄うもんじゃありません!)
高鳴る胸を押さえつけながら、わたしは頬を真っ赤に染めた。
何それ、何なのそれ!もしかして旦那様、本当はデートの時のお姉さんたちの会話を聞いてたのかな?それで女の子の想い描く理想を知っちゃったとか?
大好きな旦那様に、一生養うなんて、プロポーズみたいな言葉を貰って、嬉しくないわけがないし、ついつい首を縦に振りたくなる。『だったら、もう学校に通わなくても良いか』って思ってしまいたくなる。
(でも、それじゃダメなんだもん)
別に働くことに拘りがあるわけじゃなくて、わたしは中身が空っぽな人間になりたくない。ちゃんと知識を身に着けて、内面から輝く何かを身に着けて、ちゃんと旦那様にとって魅力的な女の子になりたい。
わたしは首を横に振りつつ、旦那様を見つめた。
「でもね、旦那様。わたし、お友達も欲しいなぁ」
こうなったらもう自棄だ。子どもっぽさ全開だけど、こっちの方が反論されづらい。上目づかいで旦那様を見上げながら、わたしは首を傾げた。
「……ロイだけじゃ足りないのか?」
「はい。同年代のお友達が欲しいです」
答えながら、嘘がバレないか心配で、心臓がドキドキなっている。
「あの……リアン様はどうして、アイリス様が学校に通われることに反対なさるのですか?」
その時、ロイが不思議そうな表情でそう尋ねた。
(確かに)
わたしにその発想はなかった。旦那様をどうやって説得するか、そっちの方に気持ちが集中していたから。
旦那様は少しだけ目を見開くと、気まずそうに顔を背けて唇を尖らせている。拗ねたみたいな表情で、それがとっても可愛い。相変わらずキュンキュン胸を高鳴らせながら、わたしは黙って旦那様のことを見つめていた。
「――――――心配なんだ」
やがて旦那様はポツリと、小さな声でそう呟いた。
次いで旦那様は眉毛を八の字に曲げて、切なげな表情を浮かべる。こっちまで苦しくなるようなその表情に、わたしはギュッて目を瞑った。見ていて苦しくなるのは本当だけど、それ以上に心臓に悪い、悩ましい表情だと思う。ギュッて抱き締めたくなるし、好きって言いたくなる。抱き締めてって言いたくなってしまう。
(まぁ、それはいつものことなんだけど)
コホンと咳払いをしながら、わたしは旦那様のことをもう一度見つめた。
「心配って?」
「どこかで痛い思いをしていないか、辛い思いをしていないか。お腹を空かせていないか、泣いていないか、元気にしているかとか……」
至極真面目な表情でそんなことを口にする旦那様に、わたしは苦笑を漏らす。まぁ、ね。あんまり期待はしていなかったけど、旦那様の心配は保護者が抱く想いだ。わたしのことを大事に想ってくれているのは間違いないけど、それはわたしが望んでいる気持ちとは異なる。
「あと、おまえに変な虫が付くのも困る」
「ふぇ?」
旦那様は困ったような表情で、そんなことを付け加えた。
変な虫って……昆虫、じゃないよね。それってつまり――――。
「付いたら困るんですか?」
心臓をドキドキさせながら、わたしは尋ねた。
いや、旦那様が保護者的な気持ちでそう言っているだけなのは分かっている。分かっているけど、嬉しく思ってしまう心は止められないわけで。
旦那様は何も言わないまま、小さくコクリと頷いた。
尋ねたことを後悔するぐらい胸がキュンキュン疼いて、身体が熱くて、堪らない気分だった。
(どうしよう……わたしって本当に幸せ者だ)
旦那様に出会えた瞬間、わたしは世界で一番幸せな女の子になった。それなのに、毎日毎日、どんどん幸せが更新されていくものだから信じられない。てっぺんが存在しないのかなぁって思うと少しだけ怖い。
「……大丈夫です! わたしはそんなに弱くありませんし、旦那様より素敵な男性は絶対、ぜーーーーったいにいないから、変な虫が付くことなんてあり得ません!」
わたしはドンと胸を叩き、力強くそう宣言する。
幸せってやっぱり努力の先にあるものだと思う。だから、わたしがちゃんと旦那様の隣にずっといられるように、頑張らせてほしいなって思う。旦那様が心配なんてする必要が無くなるぐらい、強い女の子になりたいって思う。
「――――――分かった」
旦那様は小さくため息を吐きつつも、穏やかな顔をして笑ってくれた。