魔女のせいで
戦場から戻ったアリスを待っていたのは絶妙にピリピリとした雰囲気だった。ノアは戻ってきたアリスに対してにこやかに笑いかけてくれたものの、その笑顔はどこかぎこちない。
(たった十分くらいの間に何があったのかしら…)
そこに首を突っ込む勇気は持ち合わせていない。
とにかくまずは魔女お目当てのレモネードを彼女に渡して、残りの硬貨も返した。
「おや、自分の分は買ってこなかったのかい?」
「三つはいっぺんに持てませんから。また今度挑戦します」
ただでさえとてつもない人混みなのに二つ以上持ったら確実に転けて誰かの服を汚してしまう末路が見えた。
「ほら、君が下らない話をして彼女を迎えに行かなかったからだぞ?」
「……」
あからさまにぴきりと雰囲気にヒビが入る。魔女はニヤニヤとして楽しそうだがノアの方は笑顔すら消えてしまった。どうやらこの二人の相性はよくないようだ。
(どうしてわざわざそんな煽るようなことを…!)
ノアは何も言わなかったが黙ってアリスの荷物を持ち、もう片方でアリスの手を取る。握られた手に甘い動揺をする間もなく半ば引きずられるようにしてその場を去ることになった。
「あ、あの! ありがとうございました! 二つとも大切にします!」
あわあわとしながらもどうにかお礼だけは伝えようといつもより声を張り上げて頭を下げる。ひらひらと蝶のように長い袖が揺れるのが見えた。
小さくなっていく姿に何とか声は届いたようだ。
(もう少しおしゃべりしてみたかったけれど…、乗り気ではないようだし。あんな貴重な体験ができただけで満足だと思わなくちゃ)
まだこの街に滞在するのかは分からないがどこかできっとまた会える。何ならまた次回探せばいい。どうせ自分の意思とは関係なく物語は巡るのだから。
(いけない、すぐにこうして後ろ向きになってちゃ身が持たない……今はそれより、)
それより、この状況はどうにかならないの!?
蜂蜜色の目が捉える先には繋がれた自分とノアの手がある。すっぽりと覆われるようにして握られているそれは思ったよりしっかりとしている。線が細い見た目のせいか、主人によく似た美貌のせいか油断していたが男の方なのね、といやでも意識させられてしまう。
そもそも異性と手を繋ぐなんていう経験自体が上流階級のアリスにとっては人生初で、その非日常にドキドキと緊張しているのに。嫌味なくらい長い足で早足に進まれるせいでアリスはさっきからずっと小走りでついていくしかなかった。
ただでさえ目を引く容姿をしているノアがピリピリした様子で歩くから自然と人なみが割れて道ができてしまっている。なんだなんだとすれ違う人から興味津々な視線が送られる。
気恥ずかしさと、ノアへの遠慮と、周囲からの視線で三角バサミになっていたアリスはそろそろ限界だった。何よりかによりこの手をまずどうにかしてもらわないことには恥ずかしさで茹で上がってしまう。
意を決してノアの背中へと声をかける。
「あ、あの…っ、ノア様…」
控えめに彼の名を呼ぶ。しかしその程度では喧騒の中でかき消されてしまって拾い上げてもらえない。青年はズンズンと大股で歩き続けている。
もう一度だ。
「ノア、様っ…! 止まって、くださいっ!」
今度は軽く手も引いてみる。ぐっと力を込めたがかえって強く握り返されてしまった。
(!?)
中途半端にやると逆効果だ。ノアは気付いた様子もなく後ろを振り返りもしない。段々とアリスは息が上がってきていた。それはそうだ、普段の生活で走ることなんてそうそうない。乗馬や剣を嗜むアクティブな御令嬢もいるらしいがアリスの趣味はもっぱら読書で完全なインドア派だ。健康を目的とした軽いジョギングくらいにしか縁がない。
広場から結構な距離を移動したせいであたりに人はいない。ここでなら多少大声を出しても迷惑はかかるまい。
こうなったらもうやけくそである。アリスはぎゅっと手と足に力を込めた。
「ノ、ノアさま…っ!! 止まっ、きゃっ!!」
名前を呼んだ瞬間ビクッと突然その場でノアの足が止まる。勢いのついたアリスの身体はそのまま前方に投げ出され、それは勢いよくノアの背中へとダイブする。
(止まれない…っ!!)
顔面からぶつかるのを覚悟してぎゅっと目を瞑った。
ふわりと身体が宙に浮く。
「…………?」
しかし思っていたような衝撃はやってこず、思いの外アリスの身体はしっかりと何かに支えられていた。
おそるおそる目を開けると眼前には白いシャツが。それに何やらやたらといい香りがするし。そっと目を上へ向けると心配そうに揺れる空色が飛び込んできた。
「大丈夫!?」
そこで自分がノアに抱き止められたことに気付く。ノアの左手はアリスの手を掴んだまま、右手はアリスの腰をしっかりと支えていた。
(ちっ、近い!)
パッと慌ててノアから飛び退こうとするが絡み付いた足につまづいて転んでしまいそうになる。もたもたとしながらも腕から抜け出して勢いよく頭を下げた。
「ももも申し訳ありません! 支えて頂いて有難うございます!」
ドッドッドッと自分にまではっきりと聞こえてしまうほど心臓がなっている。手を握った上にあんな距離まで近付いてしまうなんて! と淑女の自分が悲鳴をあげている。
頭を下げたままのアリスに対してノアもそれどころではなかった。
無事であることにホッとした途端後悔が襲ってくる。
(何やってるんだ僕———!)
そのまま地面にしゃがみ込んだ。膝に頭を押し付けるようにして顔を両手で覆う。
(最悪だ。今何してた? 許可なく手を握って、彼女のペースなんか気にもせずに引っ張って、そういえば息が上がってたな…走らせたのか。しかも最後転ばせるとこだった!)
最早後悔を通り越してノアは落ち込み始めていた。折角いいところを見せて仲良くなろうと思っていた女の子に対して人生で一番かっこ悪いところばかり見られている。
それもこれも、何もかも全てあの魔女が悪い!
突然現れ変な術をかけ散々こちらの警戒を煽った上に何やらノアの秘密まで知っているような素振りを見せて。神経を逆撫でされているような気分だった。彼女を守らなくては、という気持ちで尚更神経が尖っていたせいで過剰に反応してしまったところがあるのも否定しないが、それにしてもあの魔女は異質だった。
うずくまったまま完全にここにはいない魔女へ八つ当たりしていた。
普段の彼を知る友人たちがこの情けない姿を見たら、どれだけ笑い転げ回るだろうか。目に涙を浮かべて笑いを必死に堪える姿と大声をあげて馬鹿にしてくる姿が脳裏に映った。
腹立たしさで少し冷静になれる。
(あーもう、どうしようこの状況)
頭が冷えてくると今度は自分の置かれている状況がよく目に入ってくる。慌てた様子で頭を下げる少女、その目の前でうずくまって動かない男。困ったことにどうやって次の行動を取っていいか分からない。
そもそも絶対にひどい顔をしているので見られたくない。何やらどこぞの乙女のような思考だが、これ以上格好の悪いところを見られたくないという面ではあながち間違っていない。
うまい打開策が見つからずに最早ノアは思考を放棄していた。
それを破ったのは小さな笑い声だった。
「ふっ……ふふふっ、いっ、いえ、笑ったら…いけませんね…ふふっ」
朗らかな笑い声にゆっくりとノアが顔を上げる。アリスが片方の手で口を抑えて笑っていた。遠慮したような顔でも、呆れたような顔でもなく、素の彼女の笑顔は落ち込んだノアの心を実に慰めた。
「ごめんね…本当に。無理やり引っ張ったり走らせたり……」
「いえ、気になさらないで。ふふっ…、ノア様は大人びた方なのかと思いましたが……そうして落ち込まれることもあるんですね」
「思ったより子供っぽいって?」
「いえ、決して」
そうは言うもののアリスのそれは可愛い弟でも見ているかのような顔だ。それに関しては全く遺憾だが、好意的な反応はノアにとっても都合が良い。
失態をしてしまった割には——というかそのおかげでとでも言うべきか、アリスとノアの間の空気は先ほどよりずっと和らいでいた。
拗ねたような目でこちらを見上げている美しい空色の瞳ににこりと微笑みかけてアリスは手を差し伸べる。
「お腹が空きませんか? 美味しいお店、教えてくれますよね?」
その手にありがたく縋らせてもらうことにした。