夜の国の乙女たち
月の美しい晩だ。
とっぷりと闇に沈んだ街は静けさに包まれて、何人たりともその静寂を破ることは許されない。凍てついた冷たい空気が支配する夜の国。
もう長いこと、この街を闊歩するのは自分だけ。
人も獣も、皆眠りにつく。
だが、この長い夜もやがて明けるだろう。
もうすぐ暁はやってくるから。
早く、終わってしまえばいい。
*
夜空に浮かぶ月が煌々と輝く夜。深い静けさをたたえた、月の美しい晩に、アリスは一人部屋を抜け出し、学院の敷地内を流れる川のほとりへとやってきていた。
日中であれば生徒たちが行きかう賑やかな場所だが、月も傾くこんな時間には、当たり前のことだが誰もいない。
水面に銀色の光が反射してちかちかと目の奥で瞬いた。
さらさらと水の流れる音や、木の葉がこすれあってざわめく音。
人の気配が全く絶えてしまったこの時間は、アリスの中の感傷を引きずり出すにはうってつけだった。
靴を脱いで、足が痛くならないように芝生の上に立つ。ひんやりとした草の感触がくすぐったくて気持ち良い。
肩にかけたショールをするりと抜き取ると顔を隠すように頭にかぶせる。
宵の舞は孤独と静寂の舞。
宵の乙女は己の表情をヴェールで覆い隠すようにして舞うのだ。
ひらりひらりとショールを空になびかせながら、地面を滑るようにつま先立ちで芝生の上を歩く。
時にくるりと回転したり、空に焦がれるように手を伸ばしてみたり。
荒々しさや勢いはないが、内に秘めた思いを全て乗せるような、宵の乙女の嘆きが感じ取れるように。
「っふ」
ぐっと腰を落としてその場に高く跳び上がる。足を大きく前後に、手を空高く上げて、空中で体をひねったら、後は軸足で地面に。
「いっ!…つつ……」
ずきっと足に走った痛みに、アリスはそのまま芝の上に倒れこんだ。
今日ひねったことをすっかり忘れていた。
跳び上がって空中で大きく回転する宵の舞の中で唯一の大技。身体能力に乏しいアリスが一番手こずっていたところだが、無意識のうちにチャレンジしていた。結果は御覧の通りだが。
体を支配していた感傷がすっと煙の様に消えていく。後に残るのは得も言われぬ気恥ずかしさだ。
(私、宵の乙女に自分を重ねてた…?)
月の美しさに酔わされて、随分と恥ずかしい真似をしてしまった、とアリスは芝生の上に寝転がったまま、熱くなる頬に両手を添えた。
足を投げ出したまま、ごろりと寝返りを打って、ぼんやりと月を見上げる。
それを遮るようにして金色が目の前をよぎった。
「最近、ようやく意外とお転婆だということに気付かされたんですの」
彼女なら来るんじゃないか、と。そう思う心が無かったわけではない。
しかしかけられた声に、驚いている自分もいた。
「もう結構なお付き合いになるのですけれどね、わたくしたち。あなたが全く困った方だから、いつの間にかわたくしの方が叱り役になってしまったわ」
アリスの隣に音もなく腰を下ろして、彼女は困ったように微笑む。
「こんばんは、シュキアス様。美しい晩ですからお小言は勘弁して差し上げます」
「エレオノーラ様」
月が彼女の金色の髪を照らす。眩しさに、アリスは自分の格好も忘れてエレオノーラを見上げていた。
「お転婆もいいけれど流石にその格好ははしたなくてよ。女の子なんですから」
「わっ、あ、あの違うんです! えっと…」
アリスは弾かれたように上身を起こしてあたふたと両手をせわしなく動かすが、エレオノーラの生温い視線に負けて項垂れた。
「お見苦しい姿を…」
「ふ、ふふっ、よっぽど気持ちが良いのかしら? こうして直に地面に座ることなんてなかったけれど悪くないものね。ここへは月光浴でもしにいらしたの?」
「…そんなところです」
ただなんとなく眠れなくて。たまたま窓の外を見たら月が美しかったから外に出てしまった。
「気持ちは分かるけれど今日倒れたばかりなんだから無理をしてはダメよ?」
「はい」
「ベッドに寝かされるあなたを見て不安にさせられるのはもうこれで三度目ね」
「面目次第もございません……」
練習の後、マリーとあの明星の間で話していたら、たまらなくなってその場を逃げ出した。走って走って、気付いたら倒れていた。幸いケガは軽く足を捻ったくらいで済んだ。二、三日安静にしていれば感知するはずの軽い捻挫だったが、今こうして無茶をしたせいでどうなるか分からない。
まさかエレオノーラにそれを気付かれるわけにもいかず、アリスは話しながら赤く腫れそうな足を自分の体へと引き寄せていた。
それに気付かないエレオノーラではないのだが。
「そういえば、どうして靴を履いていらっしゃらないの?」
「えっ? その、涼しくて! こうして裸足で芝を踏むともっと気持ち良いんです!」
「そう慌てて隠す必要はないんじゃないかしら? ちょっと失礼」
「あっ!」
アリスのスカートの裾を少しだけ持ち上げて、エレオノーラはそっと足首に触れる。
ひんやりといつでも冷たいエレオノーラの指先がじんわりと熱を持ち始めたそこに触れると、アリスはびくりと肩を震わす。
「シュキアス様?」
にっこりとエレオノーラが微笑む。
「あなた、今日お倒れになったことをもう忘れていらっしゃったのかしら?」
(怒ってるー!)
笑っている時のエレオノーラは恐ろしい。なぜって、彼女がアリスに対して作り笑いを浮かべるのは怒っている時だけだからである。
「足を怪我しているのに、こんな無茶をするため夜更けに部屋を抜け出したの?」
ぶんぶんと首を振る。舞の練習の為にここに来たわけではない。ただなんとなくそういう気分になったから身体が動いただけだ。だがそれを伝えるのも恥ずかしい。
「月に誘われてしまったのは本当のことで、今ならば何か掴めるかと軽く振りをさらいはしましたが……」
「それにしては段々と腫れてきているように見えますけれど。無茶をなさいましたね?」
「さっき小言は勘弁する、と…」
「時と場合によりますわ」
そう言いながら、エレオノーラは赤くなった足首をいたわるように撫で、悲し気に目を伏せる。長いまつ毛の間からうっすらとうるんだ瞳が見えてアリスは慌てた。
彼女が悲しむ姿は怒られるよりきつい。だから考えるより先に謝罪の言葉が口をついて出る。
「あの、申し訳ありませんでした」
それはかえって逆効果で、エレオノーラはきゅっと唇を引き結ぶと、上目遣いにアリスをのぞき上げる。
澄んだ空色の瞳に吸い込まれるように、アリスは身じろぎすら忘れて彼女の目を見つめた。
「わたくしが、どうして悲しいかお分かりになりますか?」
夜闇にあっても鮮やかな輝きを放つ双眸に、アリスは心を揺らされた。
時々、こうしてエレオノーラはアリスを憂う様な顔をする。
「私が…自分を大切にしないから、ですか?」
「そうです。あなたはいつもわたくしを壊れ物の様に扱うけれど自分には無頓着。それは身体だけの話ではないわよ? どうして自分を一番に考えないの?」
今回のエレオノーラは様子がおかしい。
ミュリエッタの件は何一つ相談しないでアリスを不安にさせるくせに、時々こうしてアリスの心を慮るような言葉をかけて。
いつもよりずっとアリスに優しくて厄介なエレオノーラ。
本当、嫌になる。
「私は、私のやりたいことをやっていますよ。もしそれで自分をないがしろにして、他の誰かを優先しても、それは私の意志なんです」
アリスがやりたくてやっている。エレオノーラの力になると決めたのはアリスだ。
その動機に物語の強制力が働いているとしても、これは、他でもないアリスの意志なのだ。
ふ、と表情を和らげたアリスは、エレオノーラの手を取り、目の高さまで持ち上げる。
濡れた瞳がうかがうようにこちらを見ていた。
「エレオノーラ様の舞を見せてくださいませんか?」
「え?」
「前に仰っていたじゃありませんか。一緒に練習しよう、と。私はこんな状況ですから、代わりにエレオノーラ様の舞だけでも見せて欲しいな、と。ね、いいでしょう?」
「…えぇ。分かったわ」
話をそらされたことに釈然としない様子ではあったが、エレオノーラはうなずき静かに立ち上がった。
深呼吸をして、肺に空気を貯めたら、一歩。
す、と足を前に踏み出す、その一動作だけでアリスの中の記憶が鮮やかに色付いていく。
初めてエレオノーラの舞を見たとき、ただただ美しさに涙がこみ上げそうになった。
二回目は、なんて残酷な配役なんだと、悲しくて涙がこぼれた。
そうして何度も繰り返して、今となっては、闇がつくづく似合う人なんだな、と納得している自分がいる。




