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夢と現の狭間に


「何をするつもりなの?」


(いつの間に…)


 夕日に照らされた意志の強そうな顔にはっきりと浮かんだ警戒の色に、アリスは止まったはずの汗が噴き出してくるのを感じていた。

 慌てないで、ぐっと腹に力をこめてその場に立ち上がる。

 ただでさえ背の高いマリーに見下ろされたままは良くない。


「何のことですか?」

「とぼけないで。また何か企んでいるでしょう?」


 鋭い視線から目を逸らすように、アリスの目がマリーの腰に帯びられている剣に伸びる。

 騎士団の入団試験に合格したとはいえまだ見習いの身のはず。本体許されていないはずの帯剣はミュリエッタを守るために王子に直談判したのだとアリスは知っている。

 アリスがエレオノーラにそうしているのと同様に、マリーは自分の忠誠をミュリエッタに捧げることを決めている。


 ならば、中途半端にマリーとの仲を繋いでおくより、徹底的に壊した方がいい。

 マリーが一番嫌がること。それは騎士としての自分を侮辱されること。


 アリスは口元に張り付けたような笑みを浮かべると、わざとらしい猫なで声を出した。


「そうそう、念願だった騎士団の入団試験に合格したそうですね。おめでとうございます」

「話をそらさないで。それに祝うつもりもない人に言われたって嬉しくなんかないわ」

「だって剣なんか腰にぶら下げて、もうすっかり騎士気取りだから。お祝いして欲しいのかなって」


 嘲笑する様なアリスの言葉に、マリーはまなじりを一層吊り上げた。


「そうやって私を責めたてる様な言い方も。いつでも正しさを振りかざせる自分に酔っているみたい。私は何にも企んだことないですよ?」

「っ! 色々とミュリエッタにちょっかいをかけていることを私が知らないとでも思ってるの⁉」


 前回までなら間違いなくアリスはそこに関わっていたが、今回は無関係だ。何も知らないしやっていない。


 ため息をつくアリスに、マリーはカッと逆上したように口を開いたが、音に乗せることはなく、代わりにぐっと何かをこらえるように唇を引き結んだ。

 深呼吸をして、気持ちの高ぶりを押し殺すように低い声で言う。


「どうしてあの女にこだわるの?」


 言ったって分からない。伝わるはずなんてない。

 何も知らないマリーが、アリスの抱えている思いを理解できるはずなんてない。


 アリスは思わずそう言ってしまいそうだった。


「あなたなんて私を嫌っていればいいのよ」

「え?」

「私はエレオノーラ様が好き。だからあの方の力になってあげたい。あなたは子爵令嬢についた(・・・)。だからエレオノーラ様やそれに与する私が嫌い。それでいいじゃない」

「それじゃあまるであの女とミュリエッタは争わなければいけないみたいね」

「!」


 マリーは怪訝そうに眉をひそめた。


(まずい…!)


 ミュリエッタがエレオノーラに敵対する気持ちがないことをマリーは知っている。百歩譲ってもあの王子がミュリエッタを諦めることはないだろうが、エレオノーラを見ている限り、エレオノーラとミュリエッタの敵対が決定的ではないことにも気付いているだろう。


 嫌な汗が再び背筋を流れた。


 しかしアリスの不安とは裏腹に、マリーにはこれ以上それをつつくつもりもないようだった。

 マリーにとっての優先事項は今アリスの方にあったからだ。


「それに私、あなたのこと嫌ってなんか、」

「やめて! 話をややこしくしようとしないで! あなたは私が嫌い。それでいいの」


 慌てた様にアリスは声を荒げた。


 これはエレオノーラとミュリエッタの物語だ。アリスとマリーの間に複雑な関係性はいらない。だってそれは元々無かったものだから。


 色んなものがアリスを物語の正道から踏み外させようと手をこまねいている。

 結末を知っているからこそ変えてはいけない運命の流れを、他でもないこの自分に変えさせようとする。


 まるで役目なんか初めからないみたいに、アリスの決意を揺るがそうとするのだ。


 日に照らされた肌がじんわりと熱を持っている。

 赤色が、燃える様な紅がじっとりと全身に絡みつくようにアリスの視界を侵食していた。


 たまらず胸元にあるお守りに手を伸ばそうとして、よぎった青年の顔に体が固まってしまう。行き場を失った手がもう片方の手をきつく握りしめた。


 そんなアリスの姿を見て、マリーの心に生まれていた僅かな疑問が弾けた。


「ずっと気になっていたことがあるの」


 ある日突然、妹の様に可愛がっていた子が、自分たちから距離を置くようになった。代わりに後ろを引っ付いて回る相手に選んだのは、かの高名なハミルトン公爵家の一人娘。同年代の令嬢の中でも既に頭一つ分かそれ以上に抜きんでた存在感を放つ少女だった。

 最初はつり合いっこないと思った。自分にも他人にも厳しいと有名だったからまだろくに教育を受けていないアリスではすぐにねを上げて帰ってくると思っていた。


 だけど、氷の様に冷たいあの少女に付き従っているアリスはまるで別人の様だった。

 あの出会いを境に、何かが決定的に変わってしまったのだと、そう思った。


 エレオノーラがアリスに何かを吹き込んだのだと思った。自分たちを遠ざけるのも、それを願っているのはエレオノーラの方だと。

 ミュリエッタを自分に紹介したのがアリスだと聞いた時、やっぱりアリスは好きであの女の傍にいるわけではないのではないかと思った。

 だって結局アリスはいじめているはずのミュリエッタに手を貸している。

 なのに決してミュリエッタやマリーの接近を許さない。

 今もこうしてわざと自分の神経を逆なでするようなことを言って拒絶しようとする。


 アリスの行動は何かが嚙み合わない。


 前にも一度、こういうことがあった。


 一歩、マリーはアリスに向かって足を踏み出す。


「昔、私とクリードがハミルトン家主催のお茶会に顔を出そうとしたことがあったわよね」


 もうその時には既に仲が良かった頃は遠く、マリーもアリスのことを苦々しく思っていた頃だ。

 心の奥底でずっと捨てきれなった淡い期待を胸にマリーはクリードを引っ張ってハミルトン家主催の春のお茶会に向かった。その頃のマリーは女の子なのに髪も短くて、ひらひらとした長いワンピースが嫌いで男の子の様な長ズボンを履いていた。


 マリーが忘れることのできない苦い思い出。アリスがもう自分の元に帰ってくることはないのだと知った出来事。


 嫌いな相手とは言えエレオノーラには憧れの念もあった。

 初めて言葉を交わすチャンスにやっとこぎつけたと思った時、その行く手をアリスが塞いだ。

 蔑んだような目でマリーの姿を一瞥した後、アリスはこう言ったのだ。


『あなたみたいに自分の勝手で生きている人が私たちに踏み込まないで』


 びくりと握り合わせた小さな手が震えるのをマリーは見た。


「私とあなた、私たちとあなたたち、最初に線を引いたのはあなただった」


 交わらせないように高い壁を立てたのはアリスであってエレオノーラではない。


「わざと嫌われようとして。まるで自分が悪者の様に振舞うのはどうして?」


 揺れる。

 揺らぐ―――

 心が、想いが、意志が。


 怒ったような悲しいような顔をしたアリスの瞳が揺れていた。


「マリーには…分からないっ‼」


 燃え上がる炎の様に長い髪が広がった。

 きらりと光るものがこぼれ落ちて、それが宙に溶けて消えていく間に、アリスはその場を駆けだしていた。


「分かりたいから…っ、聞いてるのよ!」


 この先の正しさの答えを、きっとあの娘は知っている。



 走った。ただ走った。

 逃げるように、振りほどくように。


 すぐに息が上がって、苦しくなって、胸が痛くなっても、ただひたすらに足を動かした。

 嫌味なくらいに美しい夕焼けが世界を染め上げて、アリスの世界に広がっていく。


 何かに押しつぶされそうだった。


「はっ……はっ…」


 限界はとうにやってきていて、心臓が割れそうに痛い。

 左手で痛む心を鷲掴みにしても、ちっとも収まってくれない。


 もうずっと、この痛みを抱えてきた。


 自分で命を絶つより痛む心に蓋をして見ないふりをして、紛らわすように好きに生きるだなんて言って。


 そんなことできるわけないのに。


 怖い。変わるのがこわい。

 でもそれと同じくらい変わりたいとも思っている。


 運命なんかなくたっていい。結末なんて知らなければ良かった。

 自分や大切な人を傷つけて、それでも守らなければならないものってなんなのだろう。


「はっ…はっ…、あぅっ!」


 何かにつまずいて、身体が宙に浮いた。

 投げ出されたこの身を受け止めてくれるものは何もない。

 受け身を取らなければまた大けがだ。


 でも。


(もう、いい……)


 どうせ役を辞退するのに言い訳が必要だし。


 目をつむって、やってくる衝撃に身を固くする。


 夕暮れにこぼれた涙が、まるで血の様に赤く染まっていた。

 番を思って泣く龍の血の様だった。


「っぶ…な……!」


 地に打ち付けられる痛みはいつまでたってもやってこなくて。

 望んでいないのに、与えられる温かさと優しさにぼろぼろの視界がもっと歪んでしまう。


 そういえば、前にもこんなことがなかったっけ。


 あぁそう。あの時にも似ている。


 水の中に沈むような、霞んでいく世界に瞬いた金色も。




 あぁ、これが夢なら。


――――――ずっと覚めなければいいのに。


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