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下僕の憂鬱

 どうしよう、めちゃくちゃ入りたくない。

 出し抜けに身の危険を感じたアルフィーはようやく憩いの我が家へたどり着いたというのに、部屋の前で立ち尽くしていた。


 どうしてだろう。この扉を開けてはいけない気がする。絶対に、間違いなく厄介なことが起こる。

 己の腕は一向にドアノブに向かっていこうとしない。

 つまりこれはよく当たるアルフィーの勘が告げているのだ。

 中に入るな、と。


 そういえば、家に帰れない学生のため、寮はこの夏季休暇中にも解放されているはず。

 よし、戻ろう。今すぐ寮に帰ろう。憩いの我が家はすでになにものかに侵されている。


 即断即決。面倒ごとはできるだけ避ける、をモットーにアルフィーは怪しい香りが漂う己の部屋に背を向けた。

 逃げ出さんと大股で足を前に踏み出そうとした途端、キィっと立て付けの悪くなった扉が軋む音がした。


「アルフィー」


 地獄の釜の番人が罪人を呼ぶとしたら、きっとこんな声色なんだと思う。


 アルフィーが知る中でも、最も機嫌が悪い時のノアが、半分開けた扉の隙間から、じっとりとした陰湿な目でこちらを見ていた。


「何してる。これ以上僕を待たせるな」


 勝手に人の部屋に上がり込んでいるくせに横暴だ。

 文句の一つも言ってやりたいのに、今のノア相手にそれができるのは、余程の命知らずか、同じくらいの暴君だけであろう。

 つまり、アルフィーは意を決して問いかけるしかないのである。


「拒否権は…?」


 返ってきたのは絶対零度の薄笑い。

 否、だ。


 この瞬間、アルフィーの優雅な読書生活は再びしばらく遠のくことになってしまったのだった。


 王都にあるチェザリーニ家の邸宅、決して豪邸ではないものの、それなりの広さと一揃いの家具が用意された長男の部屋を、ノアは我が物顔で占領していた。

 アルフィーお気に入りのキングサイズのベッドを独り占めしているノアは、ごろんごろんと左右に寝返りを打つ。


 それを哀愁の滲んだ顔で見つめるアルフィーは、ベッドサイドの椅子に仕方なく腰掛けながら口を開いた。


「それで、どうしてお前はここにいるんだ? 休暇はまだ明けていないはずだが」


 ここのところ、というより例の一件以来、ノアの機嫌は地の底にあった。


 狩猟大会の打ち上げの日、ソワソワと出て行ったと思えば、覇気の無い燃えカスのような顔をして帰って来た時、アルフィー的には爆笑も…、いや非常に心配したのだ。

 聞けば彼女(・・)に別れを告げられたのだと言う。

 情けなさすぎて…、いや、哀切な結果に涙が溢れそうになった。


 その後、全く使い物にならないノアが鬱陶しくて、旅先から寮へと引っ張り戻したら今度は八つ当たりされる毎日。

 どうして猫アレルギーの自分が猫愛好家御用達しの店で無駄に面の良い野郎と茶を飲まなければならないのか。おかげで数日は涙と鼻水が止まらなくて死ぬかと思った。

 どうしてアルフィーが読みもしない物語本を大量に買い漁って持たされなければならないのか。おかげで寮の机の横には読まれない本が塔のように積み上がっている。


 時にじっと胸元にぶら下げた銀色の笛をみつめたかと思えば、ゆらめく蝋燭の火を見てため息をつく。戯れにアルフィーの手を掴み上げてははたき落とす。

 いつもの様に外面を取り繕うこともままならず、しょげた顔をして寮をふらつくノアの姿にぎょっとしている者に何度誤魔化しの言葉をかけたことか。


 甚だいい迷惑だ。


 そうして順調に腐っていたノアが、ようやく少しは正気を取り戻した様子でアルフィーの部屋にいる。

 喜ばしいことなのだろうか。

 そんなことはない。


 正常な時ほどタチが悪いのだ。ノアという人間は。


 上身を起こしたノアがクッションにもたれかかりながら、見下ろすようにツンと顎を持ち上げる。そうして嫌味なほど長い足を見せつけるように組んだ。


「お前にこの上なく名誉な仕事を与えてやる」


 暴君丸出しのセリフを躊躇いもなく言い放った。

 その声がいつものノアの様でそうではないことにアルフィーは気が付いた。

 全っ然割り切れていないのだ。


「僕の代わりに≪宵の騎士≫の役を受けろ」


 わずか一月前の出来事である。



 そうして現在、≪明星の乙女≫と騎士たちの顔合わせが終わって寮に戻ったアルフィーを悩ませるのは、極寒の眼差しで待ち構えていたノアである。


「理不尽だ」

「俺の台詞だ馬鹿。お前が受けろって言ったんじゃないか!」

「本当は僕がする予定だったのに!」


 そう息巻かれてもアルフィーにはどうしようもない。


 構ってられないとばかりに頭を振って制服を脱ぐアルフィーの背中に、ノアは言葉にならない妬み嫉みをぶつける。


 分かっている。これが自分の我儘だということは百も承知だ。それでもいつもより楽しげなアルフィーの顔を見たら抑えきれなかった。彼女の手を取るのは自分が良かった。


 どっちにしろ、つまりアリスがノアのことを拒絶しようとしまいと、ノアは≪宵の騎士≫の役は辞退しなければならなかった。

 鎮魂祭のメインイベントである≪明星の舞≫は多くの観衆に見守られた中行われる。

 学園街の内外から人が集まるその場にノアは自分の姿を晒すわけにはいかないのだ。そういう契約(・・)なのである。


 どこの馬の骨とも分からない男に、あの少女のエスコートをさせるくらいならば、自分の下僕の方がよっぽどマシ。そう思っていたはずなのに。


 無意識に自分の肌に走る薄桃色の傷跡をなぞる。うっすらと盛り上がったそこを見る度あの夜を思いだす。


 もう二度と彼女をあんな目に合わせないためにそばで見守ってやりたかったが…。

 ここのところ、自分の力不足に気づかされてばかりだ。


 ノアはアルフィーに聞こえないくらいのほんの小さなため息をついて、未だ背を向け続ける男に、丸めたクッションを投げつけた。


「……」

「とにかく! あの娘が危険な目に遭わないように守れ。変な気を起こしたり、傷付けるような真似をしたら…分かってるな?」

「俺はそこまで死に急いでない」


 哀れな下僕は無惨な姿になったクッションの形をなんともいえない表情で整えながら、今日初めて見た主人の想い人のことを思い返す。

 

 ノアから聞くような突拍子もないことなんてしそうにないくらい落ち着いた雰囲気が印象的だった。十五歳とは思えない大人びた口調で丁寧に言葉を選ぶ姿は、少し外面の時のノアに似ている気もする。


「そういえば彼女、俺があの人の弟だと知るとさすがに動揺していたな」


 「似ていない」と口にした後、しまったとでも言うように口を手で覆っていたあの気まずげな表情は悪くない。


「お前とニナは似ても似つかないからね」

「褒め言葉として受け取っておく。アレに似てるなんて言われた暁には死にたくなる」


 真に迫った声でやっと振り返ったアルフィーの顔は心底嫌そうだった。


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