これでいい
腕に巻かれた白い包帯のピンを外してしゅるしゅると解いていく。
半袖の制服では包帯を隠しようもないから。カーディガンを着て誤魔化すことも考えたがまだまだ暑いこの時期にそんなものを着ていてはそれもそれで目立ってしまう。
アリスは学園街に戻ってから――正確には寮に戻ってから、ひそひそと自分を見ては交わされる噂を思い出していた。
『ハミルトン様がシュキアス様に命じてかのご令嬢を陥れようとしたらしいわ』
『それが失敗してシュキアス様は大けがを負われたのよね』
『殿下と側近の皆様のおかげで大事にならなかったんでしょう?』
『最終日のパーティーにハミルトン様とシュキアス様は参加されなかったそうよ』
『それじゃあこれは本当の話なのかしら』
『そんな方だとは思っていなかったわ。ただの噂だなんて思っていたけれど婚約破棄は…』
『シッ! そんなことを言ったらあなたもハミルトン様に目をつけられるかもしれないんだから!』
思い出しただけで頭痛がしそうだ。
生白い腕に目を落とすと、かさぶたが所々はげ、その下から薄桃色の皮膚がのぞいている。この程度なら転んで擦りむいたと言っても不思議はないはずだ。
今更怪我の理由をアリスに尋ねるような者もいないとは思うけれど。
大袈裟に巻かれた白い包帯よりは幾分か人の目も集まらないはずだ。
今日から学院が再開する。
鏡の中の情けない自分の顔に渇を入れてアリスは部屋を出た。
残暑の日差しがじりじりと肌を焼く。夏の長期休暇が終わったからといってすぐに過ごしやすい気候になるわけではない。涼しい木陰を選んでぽつぽつと学院を目指して進む。
後期の開始にあたって今日は入学式の時と同じく大講堂で軽い式典が執り行われる。
半年前は今とはまた違う不安を抱えてこの道をエレオノーラと共に歩いていた。
あの時はまだこの人生を楽しんでやる、というささやかな反骨心のようなものが胸の内にあったが、今となってはそれもすっかりしぼみかけている。
アリスの知らない想定外の事態ばかりが起こるのは、全て自分の行動のせいかもしれないと思うことがある。
エレオノーラの様子がおかしいのも、物語に変化が生じるのも、全てアリスの責任だとしたら。
背後から強い風が吹き抜ける。風に攫われた長い髪が視界の隅で血のように広がる。ぐらりと体が傾ぐような錯覚にぎゅっと身を固くして目を閉じた。
(これから私はどうしたらいいんだろう…)
前へ進むのが怖い。何かが変わってしまうことが恐ろしい。
エレオノーラのことを一番に想う自分が消えてしまいそうで――――。
「シュキアス様?」
「っ!」
その声に不意に涙がこぼれそうになった。
この声を聞くだけで肩にのしかかっていたものや、黒い靄が晴れたような、目の前の全て以外がどうでも良くなってしまうような不思議な感覚に襲われる。
「どうされたの? 顔が真っ青だわ。どこか悪いところでも…」
「エレオノーラ、様……、いつこちらへ…?」
しゃがみこむアリスに目線を合わせるようにして慌ててエレオノーラが地面に膝をついた。
スカートが汚れてしまう、と差し伸べた手をひやりとした手が受け止めた。
ぎゅっと握られた力強さに泣きたくなるほどほっとしてしまう。
「たった今よ。ようやく用事を済ませて戻ることができたの。ギリギリになってしまったけど式典には参加しようと思って。もし調子が悪いのなら寮まで一緒に」
「大丈夫です。少し眩暈がしただけですから。昨日夜更かしをしたせいかもしれません」
ぎこちなく笑うアリスにエレオノーラはきゅっと眉を寄せた。
「そう…? それならいいのだけれど……」
麗しい顔には未だこちらを案じるような色が浮かんでいる。
金糸のような美しい髪、晴れた日の空色の瞳。白磁のような肌に色づいた唇。
全てが完成された造形はまるで化生のような妖しさを秘めている。
短い袖からすらりと伸びる長い腕も、アリスの手を取る細い指も、夏なのに氷のように冷たい体温も、全て良く知ったものだ。
その目に魅入られるようにしてアリスは息をついた。
(あぁ…エレオノーラ様だ)
再会するのは旅行の初日以来である。
主人の顔を見るだけのことにこんなに日数がかかるとは思ってもみなかった。
こうして顔を合わせた今、アリスの心に暖かな火が灯るのを感じる。
(そうよ。この方がどんな思いを抱えていたとしても、私はそれに付き従うだけ)
「連絡が遅れてしまってごめんなさいね。わたくしが誘った旅行だったのに」
自分の顔を見つめたまま何も言わないアリスにエレオノーラがためらいがちに言う。
アリスはそんなことは気にしていないとばかりに首を振った。
「いいえ。お手紙で事情は伺いましたから」
領地にいる間、エレオノーラから見舞いの言葉と、突然いなくなってしまったことを詫びる手紙が届いた。
王城から内々の呼び出しがあったらしく、内容上誰に告げるわけにもいかない。とにかく心配させないようにとメイドに誰も部屋に入れてはならないとだけ伝えて屋敷を出たそうだ。
アリスを星見の館へ呼び出したハミルトン家の印が押された手紙については何も触れられていなかった。ミュリエッタの部屋に落ちていたバッチのことも分からずじまいで、結局、ほとんどのことがアリスの想像の範疇にとどめられている。
父から聞いた話を合わせて考えてみれば、エレオノーラ、もしくはハミルトン家が何かしら企んでいることは間違いないのだろうが。
その全てが今となっては些事だ。
終わったことを気にしていてもしょうがない。
エレオノーラがアリスに伝えないと決めたことならばそれでいい。
「そうそう、遅くなりましたが…、お帰りなさいませエレオノーラ様」
淀みのないアリスの笑顔に、エレオノーラの瞳が一瞬驚きに見開かれる。そしてすぐにふわりと花がこぼれ落ちるような笑顔に変わった。
「ただいま、シュキアス様」




