扉の内と外
「それじゃあ私はもう行くけれど、きちんとお父様のところへ向かうのよ?」
「大丈夫です奥様。お嬢様はこのダニエルが責任をもって旦那様のところまでお連れしますから」
席を立つ母と入れ違いになるようにして家令が部屋へとやってきた。おっとりとした顔をしているが、その手から逃れられたことは残念ながら一度もない。
げんなりとした顔を隠そうともせず、アリスは引きずられるようにして父の待つ書斎へとたどり着いた。
「旦那様、お嬢様をお連れしました」
「入れ」
ガチャリと扉を開けると、家令は恭しく手を胸に当てて頭を下げた。ここから先はアリス一人で、ということだ。
腹をくくって足を踏み入れた。
四方を書棚に囲まれた部屋の中で、父は黙々と一人書類の整理をしていた。
忙しいのに無理やり時間を作って来たというのは本当のことらしい。
久しぶりに会った娘に目をやることもなく「座りなさい」と一人がけのソファを指す。父の机に向かうようにして誂えられたそれがまるで尋問の場のようで居心地が悪い。
膝の上で合わせた手を意味もなくこすり合わせた。
「ハミルトン公爵家の娘とはどうしている」
書類に走らせるペンを止めることなく開口一番聞かれたのはそんなことだ。
(久しぶりとか、元気にしていたか、とか。それくらいの言葉くらいあったっていいでしょう)
こんな不愛想のくせをして宰相が務まっているのか、たまに心配になる。
「順調ですよ。仲良くしろと仰った通り仲良くさせていただいています」
最近ではエレオノーラの信頼をちゃんと得られているのか怪しいところもあるが、わざわざそれを父に言いたくはない。
そもそもエレオノーラとアリスを引き合わせたのはこの父だ。家で一人遊びをしているのが好きだったアリスをハミルトン家のお茶会に連れ出し、二人が知り合った後も良い縁だから大事にしろ、と、そう言ったのだ。
物語が始まる一番はじめの記憶だから鮮明に覚えている。それが将来まさか娘の運命を決定づけることになるなんて父も思っていなかっただろうが。
王城に仕える父はあくまで王家、つまり王子の味方であって、アリスやエレオノーラの味方ではない。
アリスが父を苦手とする理由はそういうところにもある。
父はしばらくじっと何も言わないまま手を動かしていたが、やがて小さく口を開いた。
「私が昔言ったことは忘れろ。できれば今後一切あの娘とは関わるな」
「…突然ですね」
一瞬言葉に詰まって返した声は絞り出したように苦しい色を帯びていた。
「次期王妃となるお方ですよ? お父様のお立場を考えても、私が親しくしていることはプラスに働くのではないですか?」
しかし父は顔をしかめると、ぴたりと手を止めた。
「娘と公爵家の令嬢が親しいからといって私に何の利がある。そんなもので損得が生まれるような仕事の仕方はしていない」
「お父様が理を重んじて公明正大に、正しく物事をお決めになるのは知っています。よく聞く話ですから」
血も涙もない堅物宰相、と。
体中に流れる赤色は全て髪に持っていかれたせいで血が青い、なんて噂されているのだ。
幼い頃は父譲りの赤髪に散々陰口をたたかれた覚えがある。灰が混じったくすんだ赤は、まさに傷口から流れ出る血の色そっくりで。
無意識に肩を寄せ俯いた。
アリスの言葉に潜む皮肉を感じ取ってか、父は小さくため息をつくとペンを置き、両手を重ね合わせその上に顎をのせた。同じ琥珀色の瞳から放たれる視線がじりじりとアリスの肌に突き刺さる。
「もしこの家のことを思って、なんて馬鹿げたことを考えて彼女と懇意にしているのならば無理やりにでも連れ戻すのだが…、お前は彼女のことを友として心から慕っているのだろう」
「え?」
「ダニエルからもよく話は聞いていた。お前があれこれと習いたがったのはきっと彼女の役に立ちたいからだろうと。将来は女官を目指しているのではないかと」
女官は王妃を一番傍で支える職業だ。
確かに最初の頃アリスは女官として王妃となったエレオノーラを支えることを目標にしていた。しかし今それは訪れることのない未来だということを知っている。
せめてエレオノーラの役に立ちたいという思いは紛れもなく本物だが、父にそれが伝わっているとは思っていなかった。
「それを知っているのであればどうして関わるななどと」
「知っているからこそだ。沈む船と分かって娘を乗せる親はいない」
「沈む船…? どういうことですか」
聞き逃すことはできない言葉だ。沈む船とは、まさか父はこの先エレオノーラに訪れる破滅を知っているとでもいうのか。
険しい顔をして睨みつけるアリスに父はしばし逡巡した後、観念したかのように白状する。
「まだ関わっている者…陛下や私、ハミルトン公爵とご令嬢くらいしか知らない話だが、近いうちに公爵令嬢とオズウェル王子の婚約は破談になる予定だ」
「!」
知っていることであってもこんな早いうちから動いている話だとは知らなかった。知らされた事実に驚く。
「学院に入学してすぐに王子が陛下に願い出たのだ。まだ自分の片思いだが不誠実なままではどちらにも申し訳がたたない。自分は必ず意中の令嬢を妻にするから婚約を解消して欲しいと」
「そんな横暴な! 公爵がお許しになるはずが…」
「そう思うか。まぁそれが普通だろうな。娘が王族に加われば手っ取り早く勢力を伸ばせるのから、普通であれば婚約破棄なんて認める者はいない。しかしあの男はあっさりと了承したのだ」
「!?」
まさか、まさかそんな。肉親ですら彼女の味方をしてやらないのか。
「しかし肝心の本人が首を縦に振らない。もう決まったことだから覆しようがないというのに……。諦めきれずに一人で色々と行動を起こしているそうだな」
「当然です! そんな勝手なことがまかり通っていいはずがありませんもの。お父様だってそう思われているのでしょう?」
今度は父が言葉に詰まる番だった。しかし否定はしないものの決して頷きもしない。
「…少なくとも、私は今の彼女の行動のせいで、王妃に相応しい器であると断言できなくなっている」
「それは、仕方のないことではありませんか! 突然自分の人生を、積み上げてきたものを全否定されているようなものなんですから!! 何事もなければきっと立派な国母になるに決まっています……、だからどうかお父様!」
エレオノーラ様の味方になってあげて――――――。
肝心な時にアリスの目に飛び込んでくるのはいつも父の背ばかりだ。
強烈に蘇ってきた今まで全ての記憶にアリスは言葉を失う。
この父が決して自分の願いを叶えてくれることなんてありはしないと、分かっていても願わずにはいられないのだ。
その度に傷ついても、何かあの人が幸せになる道はないのかと。
背を向けたまま父は続ける。
「今のところはまだ目をつぶることのできることばかりだ。しかしこれ以上となれば立場は悪くなるだけだろう。あの娘とお前を心中させるわけにはいかない。彼女に王子を諦めさせるか、お前が彼女を諦めるか。それしか道はない」
「嫌です」
「……」
「誰が何を言おうとも私はあの方の味方ですから」
父に期待をしても無駄だ。
それに物語が変わるはずがない。
表面的にはミュリエッタに敵意の欠片もないが、いつも通り彼女の心は深く傷つけられているのだろう。
ゆらりとアリスは幽鬼のような顔をして立ち上がった。
早く、早くアリスは味方だと彼女に知らせてあげなくては。
「お父様の話は分かりました。このことは決して誰にも伝えませんのでご安心ください」
「待ちなさ、」
これ以上の会話を拒むように重たい扉は閉められた。
妻ゆずりの柔らかい髪を揺らして、妻そっくりの顔が絶望に似た諦めに沈んでいく。
ぐっと琥珀色の瞳が苦し気に寄せられた。
「娘をあんな目に合わせた奴をどうして許せる…!」
吐露された感情は誰にも届かず、固く閉ざされた扉の内に消えていった。




