泣いてない
目の前の土くれに穴が空くと、そこからアリスは外へと引っ張り出された。
すっかり雨雲はどこかへと姿を消していて、夜空には月が浮かんでいる。
逆光で己の腕を掴んでいる人物の顔は見えなかったが、それが誰なのかは先ほどの声で分かっている。
「………」
その名を呼ぼうとして声が詰まった。
アリスの姿を目に入れて、まず最初にノアはその体を強く抱きしめた。
「見つけた……っ!」
「っう」
少しの衝撃でも体が割れるように痛むので息が止まる。ぎゅうっと苦しいくらいに抱きしめられてアリスは走馬灯を見た。
(今はまずい…!)
トントンと精一杯ノアの背を叩く。
苦し気なアリスの表情に気付いてノアの腕は緩んだが、決してほどかれることはなかった。
自分を抱く力強い腕にどうしようもなく安心してしまう。
まるで夢の続きを見ているような、そんな気分だった。
二人の間に言葉はない。ただノアはアリスの首元に顔をうずめて小さく肩を揺らしていた。
「ないてるの…?」
少しでも和ませたくて、からかうようにアリスは問う。
「悪い?」
ノアなら軽口で答えてくれると思ったのに存外にとげとげしい声が返ってきた。
「悪くはないけど、そこは、『泣いてない!』って嘘をつくのがセオリーでしょ?」
返事はない。
ぐりぐりと首元に額が押し付けられて、濡れた髪が素肌に当たってひやりとした。
雨はもうやんでいたけれどノアの体はずぶぬれだ。雨の中自分を探すために駆けまわってくれたのだろうか。そう思うと心臓が握りしめられたかのように苦しくなる。
何かを恐れるようにしがみつくノアの頭をそっと撫でた。
息をのむような音の後、ぽつりと声が落ちる。
「危ないことはしないって」
「まさか私もこうなるとは思ってなかったの」
乾いた笑い声がアリスの口から洩れる。
その態度が気に食わなかったのかぐっと腕の力が強まる。
「どれほど心配したと」
言われなくてもノアの姿が全てを物語っている。アリスは眉を下げた。
濡れて目にかかった前髪を後ろに流すようにしてかき上げ、顔がちゃんと見えるように頭を後ろにそらす。
初めてノアの顔を上からのぞきこんだ。
涙にぬれた青い瞳はどんな宝石よりも美しくて、いつもならそわそわと落ち着かなくなるのに、今は何よりもアリスの心を穏やかにする。
ノアがそこにいる、こうして触れるところにいる。夢じゃない。
じわじわと実感が込み上げてきた。
「何?」
じっと自分をのぞきこむアリスにノアの方が恥ずかしそうに身じろぎした。
こんなに真っすぐな目で見つめられることなんてないから、こういう雰囲気には慣れない。
自分の頬に添えられた小さな手に自分の手を重ねてノアは少しぶっきらぼうに言った。
「顔が見たかったの」
一方アリスは恥ずかしげもなく思ったことがそのまま口から零れ落ちる。
長いまつ毛を彩る雫を指でぬぐって、ぽろぽろと唇から言葉が滑り落ちていく。
「あなたの目を見ているとほっとするの。心配をかけてごめんなさい」
ノアの体はどこもかしこも氷のように冷たい。
アリスもボロボロだがノアだってアリスに負けないくらいボロボロになっていた。
洋服のあちこちが裂けたり破れたりしているのは木の枝にいっぱい引っかかったからだ。泥にまみれて汚れているのはアリスを引っ張り上げるために土砂を掘り起こして歩いたからだ。
「私のためにごめんなさい。でもそれが嬉しくて」
ぽつりと漏らされた本音にノアの目元が朱に染まる。
ふい、と顔を隠すようにして横を向く。
「馬鹿。何でごめんなさいなんだよ。もっと早くに助けに来て、とかそういう言葉の方がよっぽどいい」
それはおかしい。だって別にノアにアリスを守る義務なんてないのだから。
ノアはアリスの言葉を遮るようにして自分の胸に抱き込んだ。
「遅くなってごめん。守れなくて、ごめん。…君にこんな怪我をさせるつもり無かったのに……。今回のこと、本当は全部僕に責任があるんだ」
後悔のにじむ声がそう言う。
ノアはきっと犯人が誰であるのか知っているのだ。そしてアリスが恨みを買うことになった理由まできっともう予想がついているのだろう。
アリスとしては通り魔に襲われたようなものだと思っているので、別にノアに対して責任を負わせるつもりはない。
それよりちゃんと考えずあの手紙に従ってしまった自分の自業自得だと思っている。
そう伝えようと思っているのになんだかうまく言葉が出なかった。
段々と懺悔するノアの声が遠ざかっていく。
ノアに抱かれて安心したからか、もうとっくに限界を迎えていたからか、アリスの意識は再び暗い海の底に沈もうとしていた。
(また心配かけちゃうな……)
ノアに聞きたいことは山ほどあるけれど、それより何より今はこのまま眠りにつきたい。
たくさん迷惑をかけてしまうけど。
休息を欲する体に逆らえず、アリスはゆっくりと目を閉じた。
*
突然魂が抜けたかのように、腕の中の少女の体重がずんっと重みを増した。
慌ててノアは腕にかける力を強める。
「アリス…? アリス、アリスっ!」
頭にも酷く怪我をしているから揺すってはならない。
慎重に地面に横たえて、胸に顔を当てる。
(大丈夫…、鼓動は聞こえるし呼吸も安定している。ただ気を失っているだけだ)
自分に言い聞かせるように何度も何度もそう頭の中で繰り返す。
理解はしているが襲ってくる不安だけはどうしようもない。
横たえると月の光に照らされてアリスの姿がよく見える。
腫れあがった頬や、青白い肌に浮かぶ生々しい傷跡、ぼろぼろになった洋服が痛ましい。
彼女をこうした相手を殺したくなるような怒りが腹の底から湧いてくるが、今はそれどころではないから。
深く息を吐いて吸った。
「まずは屋敷に連れ帰って医者に診せなければ」
ノアはポケットから使い慣れた銀色の笛を取り出すと、息を吹き込んだ。
よく気の回る従者ならば優秀なメッセンジャーに役立つものを持たせていると信じて。
間もなくバサバサと風を切る音がして、大ガラスのアークがノアの元へ飛んできた。
その首から袋を取ると、アークはちょこちょこと移動して横たわるアリスの傍へと移動した。つんつんとその手をつついて不思議そうに首をかしげている。
袋の中には大きな一枚布と筆記具が入っていた。
本当に早いうちに捕まえていて良かった、と過去の自分に感謝しながらノアは要点だけを走り書きして、再び袋の中に布以外を戻し、アークの首に下げる。
「まずはアルフィーのところに持って行ってくれ。そのあとオズのところにも。頼んだぞ」
理知的な瞳の大ガラスは任せとけとでも言わんばかりに大きな翼を広げた。
アークが飛び去って、ノアは布を広げる。アリスを包み込んでしっかりと自分の体にくくりつけると、できるだけ振動を与えないように静かにその場を離れた。
*
夜の使者のように真っ黒な大ガラスが届けた吉報に王子―――オズウェルは心底安堵のため息をついた。まさに奇跡が起こった。
手紙の文字がいつになく荒々しいところからして間違いなく友人は怒り心頭だが、きっとその怒りは自分に向けられたものではないはずだ。そう思っても背筋がぶるりと震える。
まずはこの報せを一人の少女へと伝えてやらねばならない。
オズウェルは手紙をポケットに突っ込んで、急ぎ足でミュリエッタのいる部屋へと急いだ。
「シュキアス嬢が見つかったぞ」
扉を開くなりそう大声で言い放った。呆然自失として椅子に座っていたミュリエッタが即座に立ち上がる。
「本当ですか…?」
震える声で確認する。
「あぁ。ちゃんと生きているから安心していい。すぐに屋敷に連れて戻ってくると報せがあった」
「っ良かった!」
止まっていた涙が再び両目からあふれ出した。ずっと泣いていたせいで目が厚ぼったく腫れているがそれ以外ミュリエッタにケガはない。
ぎゅっとその体を抱きしめた。オズウェルは申し訳なさを覚えつつもアリスに感謝せずにはいられなかった。
ミュリエッタだけがあの場にいたらどうなっていたか分からない。人並外れた胆力のアリスがいて時間を稼いでくれたから自分たちは間に合った。
そのせいで酷い目に合わせてしまったことは悔やんでも悔やみきれないが、ミュリエッタはこうして無事なのだ。
今後彼女には頭が上がらないな、とオズウェルはひっそりと嘆息した。
その後意識のないアリスをつれてノアが戻ってくる頃にはすっかりと夜は明けていて。
今か今かと王子たちと一緒にアリスが戻るのを待ち構えていたミュリエッタは、その姿が見えた瞬間その場にへたり込んでしまった。
朝日を受けて栗色の髪が金色に煌めいたような気がしてミュリエッタは目をこすった。
きっと見間違いだ。だってそんなのあまりにも似すぎている。
しかしアリスを心配そうに抱えるその姿に、はっと、ある記憶が蘇った。
自分が覚えた既視感は本物だったのだ。
アリスが目を覚ましたら教えてあげなくては。今回も助けてくれたのが彼だと知ったら彼女は喜ぶだろうから。




