いざ街へ
灰のくすんだ赤色の髪を左右の耳の下で結ぶと癖のある猫っ毛がふわりと広がった。一番地味な白色のワンピースを着て、青いベルベット地のリボンを腰のあたりで結んだら準備完了だ。侯爵令嬢が着るには地味だが、品は悪くないし、いつもよりずっと大人しそうに見える。
鏡で最終チェックして頷くとアリスは静かに部屋を出た。
早朝、他の生徒たちはまだ皆寝静まっているような時間だ。
あまりに地味な格好を主人含め他の令嬢の前で見せたくなくて早朝を選んだのだが、どうやら正解だったようだ。
一応これでもエレオノーラに一番目をかけてもらっている手前、あまり舐められるのもよろしくない。
特に目じりの垂れたこの目では気弱そうな印象しか与えないので、普段はキツく見られるような化粧を施し、髪もしっかり結い上げている。
だから今日の姿ではパッと見アリス・シュキアスだとは分からないはずだ。
部屋に鍵をかけるとさっさと階段を降り、寮を出た。
この3日はもしもの事態を避けるために街で宿泊することにした。
学院の生徒がわざわざ敷地内で宿をとるなんて変な話だが宿の店主は快く了承してくれた。
小さな旅行鞄を持っていざ街へ。
*
まだ外は薄暗くひんやりと少し寒い。地図を片手にまず街の中心地へと下る。大通りの左右にずらっと並んだ店たちは圧巻だ。貴族舎のある西地区はやはりターゲットが貴族なこともあって高価な品を扱う高級店が多い。愛用しているブランドの服飾店や化粧品店もある。
馴染みあるいくつかの店があって嬉しい。これならエレオノーラでも買い物をすることができるかもしれない。
案内の地図を片手にさくさく進む。どのお店も明かりはついていないし、通りには人っ子一人いない。
(少し早すぎだったのかしら…?)
アリスやエレオノーラのような貴族の中でも特に上流に入る家の女性は基本的に家を出ない。買い物をするにも店の方が家までやってくるのが当たり前なのだ。
幸い学園街は街の出入り口は全て門で仕切られ、中に入るには様々なチェックが必要になるため滅多なことがない限り人による犯罪の危険はない。しかし貴族かどうかは別として、年頃の娘が通常出歩くには良くない時間帯であることは間違いなかった。
しばらく歩いて中央広場に差し掛かる頃、真正面にようやく人影が見え始めた。
平民舎のある方、北地区通りだ。これから仕事に向かうような者たちが足速にアリスの横を通り過ぎて、明かりがついた店の一つに入るとすぐに紙の袋を携えて出てくる。
焼きたてのパンの匂いがアリスの食欲を刺激した。
件の店に窓ガラスのようなものはない。外観はお世辞にも綺麗とは言えなくて、少しだけ入るのが躊躇われる。
それでも興味をひかれて近付くと、開いた扉越しに、店の外から中をこっそりと覗いた。
「いらっしゃい、おじょうちゃん! いいところに来たね、ちょうど今焼きたてだよ!」
店の中から頭に帽子のかわりにタオルを巻きつけた恰幅のいいおじさんが大声で話しかけてくる。
おじさんは白い歯を見せてにかりと笑った。
その気安さに新鮮味を覚えながら誘われるまま店内に入った。こぢんまりとした店内は想像以上に整頓されており、暖かみのある木目のカウンターとパンを並べる陳列棚が並んでいる。
しげしげと店内を見渡していると「ほらよ」とつややかに照り映えるバターロールが差し出される。
「これは?」
「味見してみな。おじょうちゃん、うちに来たの初めてだろ? うちはここいらで一番うまいパンを焼く店だぜ」
そう言うとパンを押し付けるように渡してさっさと裏の作業場へと引っ込んでしまう。
アリスの手の中ではホカホカと湯気をあげる小さなパン。
立ったままなんて…と淑女の自分が躊躇うが、そういえば後々北への道すがらそんなものはみんな捨てる羽目になっていたな、なんて思い出す。
結局焼きたての魅力に勝てるものがあろうか。小さくちぎって口に放り込んだ。
「んっ…、ん~~~!」
この焼きたてのパンのなんとおいしいことか!
まがりになりにも貴族である自分が今まで食べたどこのものよりもおいしい。
おじさんの言葉はあながち嘘ではなさそうだ。
はむはむと何度か咀嚼して飲み込み、また次、次と口に入れていく。
あっという間になくなってしまった。
じっと店のあちこちでカゴに入れられた焼き立てのパンたちを見つめる。
干したベリーが生地に練り込まれたもの、今食べたバターロールにみずみずしい野菜と分厚いハムが挟まれたもの、今まで食べたことのないようなものが所狭しと並んでいた。
「お、食ったか。うまかったろ?」
作業場からまた新たパンを持って出てきたおじさんがにかりと笑う。
「大変素晴らしいパンでした。それに他のものも見たことないものばかりで…、全部気になってしまいます」
まずは今のパンの代金を支払おうと、旅行鞄をカウンターの上にあげて財布を取り出そうとごそごそとあさる。とまたしても「ほらよ」とおじさんが言う。
その手には紙袋があった。
「気に入ってくれたんならオマケだ! おじょうちゃん、貴族様だろ? うちの店はこんなナリしてるからよ、貴族様にはウケがわりぃんだ。でもおじょうちゃんはこうやって来て、うちのパンをうまいって言ってくれた。これはその礼だ!」
実は立ち食いできないだろうと、ちょっとした意地悪のつもりでバターロールを差し出してきたらしい。それをおいしそうに食べるアリスに罪悪感がうまれたのだと、おじさんは少し恥ずかしそうに言った。
「ではお言葉に甘えて今日はいただきます。次はたくさん買っていきますね!」
アリスはにっこりと笑って紙袋を受け取った。また明日にでも来ようと決めた。
(どうしよう…まだ店も開きそうにないし広場に人気が出るまで公園にでも行こうかしら)
店を出て当てもなく公園の方へと足を進める。
「今日の私、すごく自由にできてる気がする…やればできるじゃない」
知らず口角が上がっていた。これはいい兆候だ。
ゆっくりと、街をじっくり見渡しながら公園へと向かう。
朝日が昇り始め、両側に植えられた街路樹が影を作る。
あと一か月もたたないうちに新緑の素晴らしい時期が来る。そうしたら彼女と学園内を散歩するのも楽しくなるだろう。
と、そこで忘れぬように己を律する。
あの方はいつ変わってしまうか分からない。楽しくお話ししながらお散歩ーなんてそのうちできなくなる可能性のほうが高い、というかそうなってもらわないと本当は困るのだ。自分から彼女の変化を妨げるような行動だけは控えなければ。
(今回のエレオノーラ様はただでさえ手ごわそうだし慎重に行こう。)
ぎゅっと鞄の持ち手を握りなおして少し歩を早めた。