少女の決意
一人の男が機嫌よく敷地内を散歩していた。
たまっていた仕事が今日でやっと片が付きそうなので少しだけ息抜きすることにした。
面倒くさい後始末は友人に押し付けて、シンプルな平服に着替えてようやく自由を満喫しているところだった。
男は鼻歌交じりに湖の外周をぐるりと回っていた。今日もいくつかのボートに色とりどりの花が咲いている。生地の厚いドレスを着ていると水面から漂う冷気が丁度いいのだろう。
花を愛でながら、ちょうど屋敷とは反対側の船着き場にさしかかった時のことである。
平民かと見間違うほど地味な装いをして、一人の少女が短くせり出した波止場の先に座っていた。
格好は地味でも、柔らかくウェーブした茶色の髪や、何かを憂うように伏した菫色の目が美しくて目が引き寄せられる。
今日は本当に運がいい。
男は嫌でも上がってしまう口元を隠すように手で覆って、ゆったりとした足取りで悩める少女に近付いた。
「こんにちは、レディ。こんなところで何をされているのですか?」
ミュリエッタは突如後ろからかけられた声に驚いて、慌てて手に持っていたチェーンを隠すように両手を握りしめた。
その体制のまま声の主の方を振り向く。
ミュリエッタから数歩分開けて、背の高い一人の男が丁寧にお辞儀をしていた。
「すみません、驚かせてしまいましたか」
シンプルな服だったが、質はそんなに悪くない。身ぎれいな男だった。頭を下げる姿も洗練されているし、どこかの高位貴族の従者だろうか。
そこまで考えてミュリエッタは足を湖の方へ投げ出した自分の姿勢に思い至り、慌てて立ち上がった。
「ご休憩をお邪魔して申し訳ありません。何かお悩みのように見えたのでつい声をかけてしまいました」
「ご心配をおかけしてすみません! ちょっとぼうっとしていて」
こんな人気のないところで一人で湖を向いて座り込んでいたものだから、何か勘違いを与えてしまったのかもしれない。ミュリエッタは男にならって丁寧に頭を下げた。
「今日は天気がいいのでこうしてのんびりと湖を眺めていると気持ちがいいのです」
照れ隠しをするように頬をかいて、ミュリエッタはそう言った。
本当は昨晩のことが色々と頭を巡っていて、一人でじっとしていても辛抱たまらないので、行く当てもなくここにやってきたのだった。
朝目が覚めた時、隣のベッドにはもう既にアリスの姿はなく、クラリッサの部屋も一応訪問したが、まだ眠っているようだった。本当はもっと色々とアリスと話をしたいのだが、ミュリエッタが彼女に踏み込もうとすると、強く拒絶されてしまう。
彼女は不思議な人だ。ミュリエッタに対して敵意を抱いているようにも、憐れみを覚えているようにも感じる。ただ彼女を相手にしていると、良くも悪くも誰よりミュリエッタのことを理解していて、何も言わなくてもこちらの気持ちが全て伝わっているような、そんな心強さがあった。
ミュリエッタは勝手にアリスに心を寄せている。だから彼女が時折見せる辛そうな顔を見ると何とかしてあげたい、力になりたいと思う。嫌われていても、ミュリエッタはどうしてもアリスのことを悪く思えないでいた。彼女が最初にミュリエッタの言葉に返事を返してくれたあの日からずっと、ミュリエッタはアリスのことが大好きだ。
完全に一方通行だけれど。
無意識にまたどよりと沈み込んでいるミュリエッタを見て、男はふむ、と顎に手を当てて頷いた。
「もしよろしければ私にレディの悩みをお聞かせ願えますか? ここでこうして出会ったのも何かの縁だと思いますし」
「いえ……つまらない話ですから」
「ふむ、それなら私のつまらない話も一つ聞いてくださいますか?」
「え?」
「実はこう見えて私も悩みを抱えているのです。レディの話を聞くかわりに、私の話も聞いてくださいませんか?」
男は人好きのする笑顔を浮かべてそう言った。その身に纏う柔らかな雰囲気が、ミュリエッタの心を解きほぐす。
どうせお互い誰とも知れぬ間柄だ。一人で腐っているよりは確かに良いかもしれない。
並んでゆっくりと歩きながら、まずはミュリエッタから静かに話し始めた。
「わたし、仲良くなりたい子がいるんです。前に困っている時に助けてもらったことがあって……、それから勝手に恩を感じているというか、傍にいると安心するというか。でも彼女からはとても嫌われているんです」
「ほう。その方がレディを嫌う理由はご存知なんですか?」
アリス自身に何かをしでかしたことはないので、十中八九恨みを買った原因は彼女が敬愛するエレオノーラに無礼を働いたことだと思うのだが、どこかそれは理由じゃないと思っている自分もいる。王子との間柄も、変な勘違いはしているようだが、それもミュリエッタより王子に責があるというような態度だ。王子やその側近たちに対する態度はミュリエッタに対するものより酷い、気がする。
何というか。
「理由もなく嫌われている…? って感じなんです。とにかくわたしの何かがどうしても許せないみたいで。その理由を聞きたい、んですけど……。答えてくれるかも分からないし、どうやって聞けばいいかも分からなくて」
もし謝ってすむことなら謝りたい。何か悪いところがあるなら改善する。とにかくミュリエッタはアリスと親しくなりたい。
「勝手に自分のことを嫌っている相手のことがどうしてそんなに気になるんです?」
「正直分かりません。ですがとにかく気になるんです。すごく傲慢に聞こえちゃうかもしれないんですが、明確に人から敵意を向けられるのって初めてだったんです。だから彼女がちゃんとわたしのことを理解したうえで、わたしのことを嫌う理由が知りたくて」
それと、ミュリエッタには一つだけどうにも気になっていることがあった。アリスはエレオノーラのこととなると感情が乱れすぎるきらいがある。大好きな人のことを悪く言われて大人しくしている人間なんて少ないだろうが、それにしてもアリスのあの忠誠の深さははっきり言って異常だ。たった十五年の歳月であそこまで自分以外の誰かのことを強く思えるなんて。
ミュリエッタはその異常さが恐ろしくて、少し羨ましかった。
「そういう相手はきっと面と向かって真っすぐに聞いても本心は答えてくれないでしょうね。少しずつレディ自身で彼女のことを知っていかなくては」
「やっぱりそうですよねぇ」
分かっていたことだがミュリエッタは改めて第三者の意見を聞いて肩を落とした。
「ですが嫌われているのならまだマシかもしれませんよ」
「マシですか?」
「マシです。本当に嫌いな相手にはそもそも敵意なんか向けないですから。嫌うっていうのは意外と労力を使うものなんですよ。それだけ相手のことを意識しないといけませんからね」
「わたしはプラスに意識して欲しいんですよぉ」
ミュリエッタは半分ぐずるような声で言った。男はその姿を見て苦笑する。
「嫌っている相手から好意的な反応が返ってきたら誰でも動揺するものですから、私ならとことん積極的にうざいくらいに絡みにいきますね。そうしている内にまぁ大抵の人間ならほだされてくれるはずですよ」
「ほだされてくれますかね……、カッチカチに固まった氷みたいな目を向けられるだけでちょっと辛くなっちゃうのに」
「ベタですが、氷ならいつかは溶けるものですよ。諦めなければ割となんでもどうにかなります」
「そうですかね……」
疑わしそうにしながらも、ミュリエッタの顔は随分と色を取り戻していた。ほのかに色づく頬に男は内心満足げに頷く。
美人が悩んでいる姿は自分にとっては毒だから。
そして同時にこの手で彼女の笑顔を奪うような真似をしなくてはいけないことに重たいため息をついた。花は愛でるものであって手折るものではない。ポリシーには反するけど。
こちらも命がかかっている。
「それで、あなたのお話をお聞きしても?」
ミュリエッタは男にも話を促す。最初の言い分を律儀に守ろうとしているようだった。
ますます男は彼女を傷つけることに罪悪感を抱いていた。
「私こそ本当に大した話ではないのですが、実は主人からさる令嬢にお渡しするように、と手紙を預かったのですが、これが見つからなくて途方にくれているのです」
心底疲れたとばかりに首を左右に振った。
心優しいミュリエッタが協力を申し出ないはずがない。
「まぁ、それならわたしでもお役に立てるかもしれません! お渡しする方のお名前を伺っても?」
「ミュリエッタ・オルデン子爵令嬢です」
ぴたりとミュリエッタの足が止まる。まさかそこで自分の名前が出てくるとは思わなかったのだ。
「どうされました?」
男がミュリエッタに合わせて足を止める。不思議そうな顔をして首を傾げた。
「あの、多分それわたしです」
「なんと! こんな偶然もあるんですね」
男は目に見えて喜びをあらわにした。反対にミュリエッタはその挙動にどこかうさん臭さを感じ始めていた。
偶然? 本当に?
「それでは、主人からこちらを預かって参りましたので」
そう言って男が懐から大事そうに取り出したのは一通の手紙だ。
ミュリエッタはそれを受け取って、押された封蝋にひゅっと喉をならす。
動揺を見せてはいけないと分かってはいても小刻みに身体が震えだすのを止められない。
「確かにお渡ししましたよ、レディ。私は用事がありますのでここで失礼します」
男は固まるミュリエッタに優雅な礼を見せるとくるりと後ろを向いた。
「そうそう、シュキアス侯爵令嬢と精々頑張って仲良くなってください」
――――まぁ、無理でしょうが。
せせら笑うようなその言葉にあの夜の恐怖がよみがえって、崩れ落ちるように膝をつく。
男は振り向きもせずにすたすたと歩きだしてしまう。追いかけて捕まえる余裕は怯える少女にはない。
こんなにすぐにこれと再会するはめになるとは思ってもいなかった。
そして嫌な方にアリスの推測は当たってしまったことになる。
この件は、どうしてもミュリエッタ自身の手で解決しなくてはならないらしい。
押された印と書かれた名に、ミュリエッタは独り両手を握りしめた。




