湖上の絆
そよぐ風に小さな波が立つ。太陽の光を受けて、キラキラと輝く水面に浮かぶ一艇のボートに三人の少女が乗り合わせていた。三者三様、それぞれの思いを抱いて。
(あぁもう本当に早く帰りたい。昨日からどうしてこうなのかしら)
その中でもアリスは一番覇気のない顔をしていた。昨夜の憂鬱が抜けきらない内から、今にも死にそうな辛気臭い顔を見たら誰だってそういう鬱屈とした気持ちを抱く。
クラリッサはどよんと落ち込んでいるし、ミュリエッタは状況が分からずおろおろと狼狽えている。
そのミュリエッタを胡乱な目で見ながらアリスは思う。
(どうしてこの子こんなところにいるの…?)
明らかに一人だけ場違いだった。
クラリッサも思ったようだった。
「あの、どうしてこの方がいるんですの?」
「奇遇ですね。私もそれが知りたいと思っていたところです」
自然とアリスとクラリッサの視線がミュリエッタに注がれる。
普通に考えて、自分の部屋を荒らしたかもしれない二人と、誰の助けも届かない水上に漕ぎ出るなんて、のんきを通り越してもう阿呆なんじゃないかと思う。
そんなことを言ったらアリスの部屋に転がり込んできている時点で危機回避能力ゼロなのだが。
「えーと、私も何か力になれるかと?」
「! 力になるも何も、もとはと言えばあなたのせいで!」
クラリッサが激高したように声を荒げたので、ミュリエッタはびくりと怯えるように肩をすくませた。
それを見てぐっと唇を結ぶと、クラリッサは糸の切れた人形のように力なく俯いてしまう。
「またこんな態度を取ったと知られたら嫌われてしまいますわ」
お兄様に、という言葉は音無く漏らされた。
一人状況が良く分かっていないミュリエッタは混乱しているようだった。
クラリッサが抱える問題に気付いくはずもないので仕方がない。
「また兄君に何か言われたのですか」
アリスが話を促してやろうとそう言うと、クラリッサは俯いたまま頷いた。
ゆらゆらと揺れ動くボートに身を任ながらクラリッサはぽつぽつと話し始めた。
「元々、この旅行には半分両親の強制で参加したんですの。殿下の不興を買ってお兄様の邪魔をしたからせめてオルデン子爵令嬢に謝って許しを得てくるか、そうでなければ少しでもエレオノーラ様に取り入れと」
やけっぱちなのか、包み隠さず話して、というかほの暗い側面を大暴露してしまっている。
大丈夫なのだろうか。アリスは少し不安になった。
「正直に言ってわたくしはあなたのことが嫌いですし、この間のことも、その…、少しはやりすぎたと思いましたが……」
「マクマホン様がやっていなければ、私がエレオノーラ様と同じ目に合わせていました。突き飛ばすなんて可愛いものです」
余計なアリスのフォローにクラリッサは固まり、ミュリエッタは「ひぇ」と小さくうめいた。
「とにかく、来たくない旅行に来て、エレオノーラ様は体調が優れず、シュキアス様まで参加されないのでしたらパーティーに参加する意味もないと自室にいましたの。どうせあなたは殿下たちにガッチリ守られているので、わたくしが近付けば警戒されるでしょうし。わざわざ大勢の目の前で屈辱を味わうこともありませんから」
赤裸々にミュリエッタへの嫌悪を語るせいで、言われている本人は少し涙目だった。
「しばらくしたら喉が渇いたので何か用意してもらおうと部屋を出ましたわ。そうしていたら石座だけのネックレスを見つけて、随分品が良さそうだったので本日持ち主を探そうととりあえず部屋まで持ち帰ったら部屋の前で慌てたお兄様と会って……」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってください! そのネックレスの色や長さは!?」
突然クラリッサの話をミュリエッタが遮る。
「色…? ピンクがかったゴールドで、長さはこれくらいですわ」
クラリッサは空中で指を立て、大体の長さを表す。
「石座の他に何かついていましたか?」
「いえ何も。石座そのものが結構大きかったので石がそれなりの大きさなのでしょうね。というかどうしてこんな話を?」
「実は…わたしが後ほどシュキアス様にご相談しようと思っていたのもそのネックレスについてなんです」
ネックレスといえば、とアリスはあるものに思い当たる。王子がそれを渡すのはもう少し後のはずなのだが、今回の王子はよっぽどミュリエッタにぞっこんで逃がしたくないようだ。
その執念に背筋が寒くなるような気がして、両手で肩を抱く。
「ガーデンパーティーの後、殿下から青い宝石のついたネックレスを頂いたんです。側近たちの証で、皆持っているからと。ほとんど初対面だったし、つけるのが申し訳ないような気がしていたんですが、必ず手元に置くようにといわれていましたので、今回の旅行にも持ってきて、部屋に飾っておいたんです」
王子は東方の文化を真似て、自分の側近たちに、王室だけが扱うことのできる特別な宝石のついた装飾品を与える。例えばクリードであれば親指にはめた指輪がそうだし、レイノルドは左耳の耳飾り、ニコライは常に持ち歩いている懐中時計がそうだ。
将来王になった時に、この者たちは重用するという、王子なりの他者への牽制だ。手っ取り早くいってしまえば、俺がツバをつけたんだから手を出すなよ、と言っているのだ。
そこに女性で加わったのはミュリエッタが初ということになる。どうせなんだかんだと屁理屈をこねてだまし討ちのように渡したのだろう。
その姿を想像すると余計に背筋が凍る。
宝石のことを知っている者は少ないが、少なくともアリスやクラリッサのような、ある程度力ある家に連なる者は知っている。
「まさかわたくしが拾ったのは!」
「おそらくわたしのネックレスです」
「最悪だわ!!」
クラリッサは立ち上がろうとしてここがボートの上であることに気付きなんとか踏みとどまる。しかしその衝撃でボートは大きく揺れ動いた。
「運が本当に悪かったとしか言いようがありませんね。そんなものを持っていたら私がやりましたと宣言しているようなものです」
「わたくしはやっていませんわ!」
クラリッサは悲鳴のような声を上げた。大きく開けられたその瞳からボロボロと大粒の涙が堰を切ったように零れ落ちる。
「でも、いくらそう言ったところでお兄様は信じてくれません! ただでさえ妾腹の娘は性根が卑しいなどとそしりを受けていますのに、部屋を荒らして殿下から頂いたものを盗み出したなんて報告されたら、わたくしはもう家にはいられません!!」
ミュリエッタの目に驚きが満ちる。
その昔、マクマホン侯爵が戯れに手を付けた下働きの女は運悪く身ごもってしまった。侯爵は女が産んだ娘を引き取り、かわりに一生かかっても使いきれないくらいの大金を与えて家から追い出したのだ。
侯爵家の娘としてクラリッサは懸命に努力していたが、才能あふれるレイノルドにはどうしても劣り、家でずっと肩身の狭い思いをして暮らしてきた。
クラリッサが家で居場所がないのは兄に何一つ勝てない不出来な妹だからではない。その母親が侯爵家に仕えていたただの下働きだったからだ。
マクマホン家のためにエレオノーラに取り入ろうと苦心しているのは、自分の有用性をなんとか家族に示すため。クラリッサの言動の端々には自分を認めてほしいという欲が滲んでいる。
アリスは父の立場と、貴族の内実はできるだけ知っておいた方がいいという方針のおかげで、そうしたことに詳しい。だが田舎育ちで、王子の顔すら知らなかったミュリエッタにそれを知る由はない。
「わたしがレイノルド卿に話して…」
「お兄様はあなたに手を上げたわたくしを絶対に信用なさらない。今回のことだって、わたくしを犯人ではないと認めないでしょう。それにあなたがそんなことを言ったらますますわたくしのことを疑うに違いないわ」
「そんなことありません!」
「あるの! 半分とはいえ血の繋がった妹よりあなたの方が大事なの。わたくしがあなたを嫌うわけが分かった?」
クラリッサにとってガーデンパーティーの一件はエレオノーラのことだけが理由ではない。遠くに見えた兄が、親し気にミュリエッタと会話をしている姿が満たされない心を傷つけたのだ。
その後も今日にいたるまで、自分には1ミリも関心を持たない兄が、まるで本当の妹のようにミュリエッタを慈しむ姿を何度も見てきた。その度に胸が張り裂けそうになる。
どうしてその子に向けるほんの一かけらでも自分に笑いかけてくれないのかと、そう思った。
「レイノルド卿は優しくて…」
「あの男は腹が黒いですから。気になる子に見せる顔は良いに決まってます」
そんなアリスの言葉に反応を返せないくらいにはミュリエッタはショックを受けているようだった。
本当にこの娘は何も知らないだけ。何も知らないまま物語に流されて色んな人をこうして傷つけている。
そういう面ではミュリエッタも被害者だ。自分にはどうしようもないことでアリスやクラリッサに訳もなく疎まれて。
本当だったら少し腐ってしまってもしょうがない。アリスならきっと理不尽に憤るだろう。
それでもミュリエッタはヒロインだから。
純粋無垢な気持ちが、ささくれだったクラリッサの心を受け止める。
ミュリエッタはクラリッサの両手を掴んでその目を真っすぐに見つめた。
「絶対に本当の犯人を捕まえましょう。そうすることがクラリッサ様の疑いを晴らす最善策です」
「わたくしのことを信じてくださるんですか……?」
「勿論です! というか最初からわたしはクラリッサ様もアリス様もエレオノーラ様も疑っておりません!」
確かに、昨晩からミュリエッタはそう主張していた。この純粋さが彼女の何よりの美徳なのだ。
「きっとわたしたちで見つけましょう!」
ヒロインのかける言葉にどうしてそこまで力があるのかは分からない。しかしそれを傍で見ているアリスでも何かを感じるくらいに、ミュリエッタの言葉には胸が満たされるような温かさがあった。
「本当に手伝ってくれるんですか……?」
「ええ! 約束します! って言ってもアリス様はすぐに『嫌です』と仰るんでしょうけど」
ミュリエッタは苦笑しながらそう言った。しかしアリスは首をかしげる。
「いえ別に。私も協力しますよ?」
「え!? わたしの時はいつも嫌だって……」
「あなたのことは嫌いですが、マクマホン様のことは別に嫌いではありませんから。それに借りもありますし」
「そんなぁ」
「それとオルデン子爵令嬢、一ついいですか?」
「ミュリエッタで構いませんよ」
「私はあなたに名前で呼ぶ許可を出した覚えはありません。今まで通り家名でお呼びください」
「そんなことばかり!」
ミュリエッタはがくりとうなだれた。
そんなミュリエッタを置いておいて、アリスはクラリッサに向き合う。
「本当にご協力いただけるんですか……?」
「最初からそのつもりでしたよ?」
クラリッサは本気で分からないといった顔をしていた。
アリスが決して自分に良い感情を抱いていないだろうとクラリッサは思っていた。それでも誰かに縋りたくて、そんな時にアリスのことが思い出された。今だってダメもとのやけくそで話していたのだ。
「理由を聞いても?」
クラリッサは疑り深くそんなことを言う。
なんだそんなことですか、とアリスは意地の悪い笑みを作った。
「あなたのお兄様のことが嫌いなんです」




