会う口実
翌日、再びアリスは街にやってきていた。今日は隣にエレオノーラはいない。
ここのところすっかり慣れたシンプルな恰好をして、≪猫の尾≫へ向かう。ノアと会う時はここが定番になっていた。
最近は悩み事ばかりで気が晴れなかったが、昨日エレオノーラとたくさん買い物できたし、図らずもクラリッサに励まされてしまったので久しぶりに元気を取り戻して足取りは軽やかだ。
広場を北に進んでベルヴェデール区の飲食店街へ。
寝転がる猫が描かれた大きな看板の下、見慣れた茶髪の青年がぼーっと空を見上げている。そんな姿まで絵になるのだから容姿というのは恐ろしい。
暇があればいつも空を見ているが癖なのだろうか。
アリスは張り切ってノアに声をかけた。
「こんにちは、お待たせしましたか?」
ノアはすぐにこちらを向いて手を振って挨拶を返す。
「やぁアリス。ううん、さっき着いたところ」
「いつも空を見ていますが何かあるんですか?」
「んー、考え事をする時に空を見てると落ち着くんだよね。それより、敬語。戻ってるよ」
げ、とアリスは顔をしかめた。
「…苦手なのよ」
「大丈夫、慣れるって」
「そればっかり」
ふてくされるアリスにノアは笑顔で答えた。
何度も繰り返し会っている内に、よそよそしいから敬語をやめようといつもの調子でお願いされたのである。ノア(の顔)に弱いアリスが結局押し負けてしまったことは言うまでもない。
「それじゃあ入ろうか」
扉を開けるとカランコロンという鈴の音と共に、のんびりとした「いらっしゃいませー」が聞こえる。
接客より猫たちに最大限配慮して、極力大きくなく穏やかな声で応対するこの店の姿勢をアリスは気に入っていた。
これが≪猫の尾≫が真の猫好きに愛される所以の一つである。
足にごろごろとまとわりつく猫たちの攻撃を避けつつ、店員に案内された席は二階の半個室になっているスペースだ。ここも毎回恒例になっている。
ひとまず飲み物を注文して、届くまでの間雑談をする。
アリスはノアから魔女の話を聞くのが好きだった。自分の知っている本の知識が本物の魔女の話と繋がるといわれもない高揚感がある。
そうこうしているうちに、注文したものが届けられた。
「さて、それじゃあいつも通り日記帳を借りても?」
アリスは手元の鞄から日記帳を取り出し、ノアに差し出した。
錠前は相変わらずちっとも緩んだ様子がない。
「何か変わったことはあった? 例えば光を放ったとか、誰かの声がするとか」
「いいえ。そんな素敵なことがあったらすぐに手紙で報告していると思う」
「怪奇現象を素敵なんて言うのはアリスだけだよ」
ノアは手に持って日記帳の状態を確認する。
それを頬杖をついて眺めながら、アリスは中身が見られないのに何の意味があるのだろうと毎度不思議に思っている。
十分ほど、ああでもない、こうでもない、と日記帳をひっくり返すと満足したのか、ノアはそれをアリスに返してきた。
「はい、ありがとう。もういいよ」
「何か分かったことは?」
「いや、残念ながら。日記帳っていうんだから中を読まないとね。いつも状態はチェックしてるけどやっぱり開く様子はないな」
「ベルトを切って無理矢理開けないのかしら」
ふるふるとノアは左右に首を振った。
「覚えてない? 『乱暴に扱うと本が崩れてしまうかもしれない』って魔女が言ってたのを。多分正しい手順で開けないと文字通りこれは崩れるんだよ。この錠前はただの錠前じゃない」
そしてノアには本当はもうその手順におおよその見当がついていた。魔女がわざわざアリスを離して伝えたヒントから考えて、おそらくこうだろうと。しかしそれを実行するには色々と問題がある。少なくとも今日のように人目のある場所では無理だ。
じっとノアは日記帳を見つめている。
このままでは埒が明かないと思っているのかもしれない。
アリスはここのところ考えていたことを口に出した。
「その日記帳、きちんとした場所で調べてみればもう少し色んな事が分かるんじゃないかと思うの。だからしばらくノアが預かってくれない?」
アリスとしては中々いい提案だと思っていた。
が、ノアはあまり嬉しそうではない。何というか、ありがた迷惑、のような顔をしていた。
「その方があなたにとってもいいと思ったのだけれど…違った?」
「いや、違くないよ。研究としてはその方が助かる……んだけど、アリスに会う口実がなくなっちゃうなぁ、って」
へらりとノアは気の抜けた笑顔をアリスに見せた。少し寂しそうな声がそれが本音であることを示している。
妙な沈黙が訪れた。
ノアの言葉の意味を嚙み砕いて、アリスは頬に熱が集まるのを感じた。
「なっ、にそれ…口実だったの…?」
「いや、日記帳を研究したいのは本当。でもそれよりアリスに会いたいからダシに使ってた。ごめんね、だますような真似をして」
「呆れた……」
そう言いながらますます頬に熱が集まるのはなぜだろうか。アリスはそれを隠すように冷えたグラスを頬に押し付けた。
「だってアリス、最初の日に『また会おう』なんて言っても絶対会ってくれないでしょう?」
「それは…」
その通りだ。アリスは自分に極力縁を結びたくない。もしストーリーに影響があったら大変だからだ。
しかし今となっては、アリス・シュキアス侯爵令嬢として、こなさなくてはならない役目を忘れていられるノアとの時間は、ひそかな楽しみになっている。
「別に、口実がなくたって会うのを断ったりなんてしないわ」
ぽつりと小さな声でアリスは呟いた。
「本当に!? それなら日記帳を預かるよ」
ぱっとノアの顔が即座に輝き、机の上の日記帳がノアの鞄の中に吸い込まれるように収められた。目にもとまらぬ速さだった。
「やっぱり確信犯ね?」
「何のこと?」
アリスは大袈裟にため息をついた。
コロコロと表情の変わるノアにいつも振り回されてばかりだ。
「アリスが随分僕に心を開いてくれたみたいで嬉しいよ」
「私もノア様がお喜びで嬉しいです……」
力なくアリスは中身の少ないグラスをあおった。
「そうそう、もうすぐ夏の長期休暇に入るよね。アリスはどうするの?」
雇用体制に優れたこの国では、必ず七月の最後の週から八月の頭にかけて、丸一週間程度の休日を与えることになっている。
その間に故郷に帰ったり、ちょっとした旅行に出たりするのだ。
これに関しては聞かれるだろうと踏んでいたので答えを用意してある。
「お仕えするお屋敷の方が避暑に行くので私もそちらに同伴することになりました」
「敬語」
「……お休みは少しズレるけど旅行から帰ってきて改めていただけることになったわ」
内容に不自然はないはずだ。ノアも特に気にした様子はない。
「そっか、優秀なんだね。僕もその週間は学校の旅行に行くから丁度良かった」
ドキッと心臓が嫌な音を立てる。
「あれ、以前にそういう行事ごとは苦手だから参加しないって」
ガーデンパーティーの時悪目立ちをした自覚があるので、もしや気付かれたのでは、と後日会った時に、それとなく探ったことがある。
あの日の化粧はアリスがいつもする悪役令嬢風ではなかったので、後になってひやひやしていたが幸いノアは参加していなかったらしい。
その時に、あまりそういった大きなイベントには参加したくないのだと言っていた。「僕が出たら目立つでしょ?」とさも当然のように言われた時はそのふてぶてしさにいっそ感心したのでよく覚えている。
でもきっとその通りなので返す言葉はなかった。
「今回のは全員が参加するものじゃないから。それに友人が狩りが好きでね。行かないなら絶交するなんて言われたから毎年渋々参加してるんだ」
「よっぽどお好きなのね」
「いつも僕に勝てないからムキになってるんだよ」
「狩りが得意なの?」
「アリスは嫌い?」
「好きな女の子は少ないと思うけれど…、血を見るのはあまり好きじゃないわ」
アリスにとって血はいつも自分の死に強く結びついている。流れ出る血を感じながら体が冷たくなっていくあの感覚は誰だって好きになれないはずだ。
控えめにほほ笑んだアリスの裏にどんな感情を読み取ったのか、ノアはふむ、と頷いた。
「それなら今回の狩猟大会では一つも血を流さないようにする」
「そんなことをしたら負けちゃうわよ?」
「別に僕は勝負にこだわってないよ? それに銃だけが狩りの道具じゃない」
ノアの言っていることが本気か冗談かはおいて、そうしてアリスを気にかけてくれることに胸が温かくなった。
「頑張ってね」
ノアは張り切った顔で頷いた。
*
「それじゃあ旅行から戻ったらアークに手紙を持たせるから」
夕暮れに沈んだ広場で、アリスとノアは解散する。
「えぇ。旅行楽しんでね。勝負にも負けないで」
「勿論。アリスも、西の方は今大雨で土砂崩れが多いって話だから十分気をつけて」
「あなたもね。それじゃあまた」
「また」
ノアはすぐに平民舎がある方の人込みの中に消えていった。
その後ろ姿を見送ってしばらくしてから、ゆっくりとアリスも立ち上がる。
暗くなる前に戻らなくては。
円形の広場から抜け道のある西の大通りの標識が立っている方へ体を向ける。
(あれ……西?)
ぴたり、と足が止まった。
どうしてノアはアリスの行先が西だと思ったのだろうか。避暑地として有名なリゾート地は北の方に密集している。西の方は数が少ない。王家所有の避暑地があるので毎年バカルディが使われているが、普通貴族の避暑と言えば北の方だ。
(自分の行先が西だからそう思ったのかしら…?)
アリスやエレオノーラ、ノアたちが行くバカルディは西にあるから。
ぱっとアリスは頭を振った。
「最近なんでも疑いそうになるのは良くないわね」
頭に浮かんだ疑念を振り払うように足を前に突き出した。