意外な幕開け
麗らかな春の日、爽やかな風に吹かれながら、二人の少女が随分と立派な造りの学舎から、これまた一学生が暮らすには過分なほど豪奢な寮への道をゆっくりと歩いていた。
まなびやとは建前であり、その実貴族見習いたちの社交場であることが、如実に建物に現れている。
先ほど校舎内の大講堂で執り行われた入学の挨拶も無事終わり、必要事項が説明された後、本日の行事は終わりになった。これからの5日間はこの暮らしに慣れるため、とのことで早速休日である。
今更社交界デビューを目前にした貴族の子女が学ぶものもないだろうが、あまりの放任っぷりに呆気にとられている者もいた。
この場で培うものは知識や技術ではなく人脈そのものだと隠す気があまりないらしい。
(まぁ、私には好都合ですが)
心の底でアリスは大きなため息をついた。
幸せな時間は今日で終わりを告げる。いよいよ物語がスタートしてしまった。自分にはもうあまり時間が残されていない。
アリスが世間で言うところの前世を思い出したのは彼女が六歳の時である。父に連れられてやってきた公爵家主催のお茶会で、その家の一人娘を見た瞬間、頭に稲妻が落ちたかのような衝撃を受けた。走馬灯がかけ巡り、いくつもの知らない記憶が幼い少女の頭の中を蹂躙した。
気が付くと知らないベッドに寝かされていて、側には知らない、だけれども一番知っている己の主人が心配そうな顔でそこにいたのだ。
記憶が全て戻った後、アリスの心の中には慣れた絶望があった。しかしその絶望とともに今回は彼女にも意地というものが生まれていた。
別に己の運命が決まっているからと言って毎日を鬱々と陰気に過ごす必要もない。どうせ死は避けられないのだから、それならばめいいっぱい好きに生きようと、そう決めた。
そんなわけで今回は色々と目標があるのだ。そのためには自由な時間はいくらあっても困らない。
運命に抗いはしない。しかし自分の心だけはその絶望に屈しない。少なくともその日が訪れるまでは。
アリスの心持ちはいつにも増して晴れやかだった。
そんな彼女の雰囲気を汲み取ったのかもう一人の少女——エレオノーラは優しげな微笑を浮かべていた。
「ねぇ、シュキアス様、今日はすごくいい天気ね。1年間の幕開けには素晴らしいわ」
「ええ、エレオノーラ様。ここ数日で一番の快晴ですわ。天におわす神がエレオノーラ様の新たな門出を祝福しているのだと思います」
これから自分たちにもたらされるのは祝福ではなく破滅であることを知っていて、あえてアリスはそう言う。
エレオノーラは嬉しそうに顔をほころばせる。
花の咲くような笑顔というのはこういうものを言うのだろうか。腰まである長いサラサラの金髪は日の光にきらめき、涼やかな印象をたたえた切れ長の瞳は澄んだ空色を宿している。小さな顔にバランスよく配置された目鼻のせいかまるで美の女神の彫刻のような印象さえ受ける。
まさしく彼女は大輪の華だった。
「それにしてもこの格好では少し寒いですね…。揃いの制服で在学中の絆を深めるという話らしいですが…」
快晴であってもこの季節に吹き抜ける突風は肌寒く感じる。肩を抱き寄せるようにしてアリスは言った。
「十中八九、方便ですわね。本音は『折角の交流の場で家同士の経済状況を誇示させて無駄に競わせたくない』といったところでしょうか。貴族といえど財力にはかなり差がありますから」
あっさりと建前を認めるような発言をするエレオノーラにアリスは苦笑した。学院の運営者は王室だ。そして彼女は将来王室に入ることが確約されている身。どこかでそういった話を耳にする機会もあるのだろう。
「ですが、このお洋服結構気に入っているんですの。わたくしたちには少し先進的ですが、こうして足を出すスタイルが今諸外国でもとっても人気なんですって」
エレオノーラは歩きながらひらりとターンする。
スカートの裾が風を孕んで持ち上がり、すらりとした細い足が晒されている。
ここに王妃教育のマナー講師がいたならば卒倒してしまうかもしれないような行動だ。
本来ならば止めるべきなのだろうが随分と浮かれた様子の主人に向かってそんな無粋な真似はしたくなかった。
それに彼女は恥じらった様子もなく、その姿は決して下品ではなかった。
この時代の貴族令嬢にとっては少々抵抗のある形だが、それを難なく上品に着こなす主人をアリスは見せびらかしたい気分だった。
「ニナ・チェザリーニ、でしたか? 賛否は色々とあるようですが主に若い令嬢たちの間では人気のデザイナーのようですね。流石にこんな長さのスカートはプライベートでは履けませんが、今度何着か用意させましょう」
「素敵だわ。その時はきっとお揃いにしましょうねシュキアス様」
中々目にかかることのできない屈託のない笑顔につられてアリスまでもが相好を崩す。
王妃としての英才教育を施されてきたエレオノーラに自由な時間などほとんどなかったことは知っている。特にここ3年間はアリスですら中々顔を合わせることができなくなる程に、エレオノーラの時間は王宮によって管理されていた。
だからアリス自身も、いつものことだがエレオノーラの隣の部屋、同じ学舎になり、彼女とより長く時間を過ごせることが嬉しい。せめて何か、彼女の心を救うためのことをしたい。
健気に主人を思う少女の傍ら、無慈悲にも運命の歯車は進んでいた。街にあるアパルトマンを更に大きく、きらびやかにしたような建物の前で見覚えのある、特にアリスにとっては親殺しよりも憎い二人組を見つける。
――あぁ、ついに始まるのか。
人知れずこっそりと顔を曇らせた。
目の前にはそう、あの二人。オズウェル王子とミュリエッタ嬢がいる。
地図片手に途方にくれているミュリエッタが誰と知らず王子に道を尋ね、王子は若干呆気にとられたまま案内する。
王子はそんな風に気さくに声をかける相手ではない。婚約者であるエレオノーラですらできないのだ。
ミュリエッタが特別不遜な人物であるわけでもない。アリスは何度も経験してようやく分かったのだが、とどのつまり彼女は現時点で自分が話しかけた相手が王子であることを知らないのだ。
エレオノーラとは種類の違う、だがそれでも間違いなくエレオノーラに比肩する美少女から笑顔を向けられた王子は、わずかに動揺し、頬を染める。
(これを見たエレオノーラ様は眉をひそめ、ミュリエッタ嬢に注意を……)
「え?」
「あら、どうかされまして?」
エレオノーラはいつも通り――親しくない者が形容するに凍てついた顔――のまましらっとその様子を見つめていた。
彼女は美しい。美しいが、どうしてかアリス以外の人目がある時は決定的に表情が欠落してしまう。美しいが故にその無表情は見る者に一種の恐れを抱かせるのだ。
なんでも、公爵令嬢らしい威厳を出すため、だそうだが、その変貌ぶりには慣れていても舌を巻くものがある。アリスの前では優しくて柔らかな姉のような人なのに、一歩外に出るとこれだ。自分にも他人にも厳しそうな(実際に自分にはめっぽう厳しい)完璧な氷の公爵令嬢の完成である。
しかしアリスから見ても今回は特に気に障った様子もない。それどころか二人を通り越し、後ろにそびえ立つ寮をじっと見つめて目を輝かせている。
何 か お か し い。
アリスは内心かなり動揺する。それは初恋に胸がざわめく王子以上の動揺だったに違いない。
(ここでエレオノーラ様がまず第一の変化を遂げる。それが今までの流れのはず。少なくとも悲しそうな、複雑そうな、そんな表情を…)
いや、それすらも浮かべてない。
全くの無。負の感情が欠片も見当たらない。それどころか若干好奇的だ。
動揺のままアリスは思っていることがそのまま口に出た。それは図らずもエレオノーラを揺さぶるような台詞になってしまい、苦いものが胸に広がる。
「エ、エレオノーラ様、前方、見ていらっしゃいます?」
「ええ、見ていますわ。立派なアパルトマンですわね。わたくし、こういう建物に住むのが憧れでしたの」
にこり。
「し、失礼ですがエレオノーラ様は眼鏡などお持ちでしたか?」
「あら、わたくしはこれでも目はいいのよ。シュキアス様もご存じでしょう?」
手狭だけど綺麗な建物ね、と金髪の美少女は嬉しそうだ。ただし相変わらず表情は欠落しているので彼女が喜んでいることに気付いているのは一人しかいないだろうが。
黙っているだけでエレオノーラには凄みがある。だから外野からしてみれば王子とミュリエッタの出会いを氷の眼差しで睨みつけているようにも見えたかもしれない。体面的には物語は順調に進んでいた。
しかし唯一主人の感情に気付いているアリスはぽかんと開いた口がふさがらなかった。
これは一体どういうことか。
もう少しだけエレオノーラに揺さぶりをかけるべくなんとか開きっぱなしの口を動かす。
「…大変失礼ながらオズウェル王子殿下のあの様子、私は少々引っかかるところがございます」
「あら、あんな可愛らしい笑顔を向けられたら誰だって頬を染めてしまうわ。王子のあの様子、初めて見ましたわ! 次のお話のときに少しからかってあげませんと」
クスクス、とやけに楽しそうだ。ただその笑顔に負の感情がない。それどころか恋敵に可愛らしい、だなんて……。
おかしい。おかしすぎる。
いつもの自分が知っているエレオノーラのままだ。
彼女に豹変の様子は微塵もない。
困惑するアリスの手を取りエレオノーラはまたにこりと笑った。
「それより早くお部屋に参りましょう」
(わ、笑った…!)
途轍もなく些細なことで何を驚いているのか、とは言わないでいただきたい。何故なら今の今までアリスですらミュリエッタと王子の出会いの後、エレオノーラの笑顔を見ていなかったのだ。愛想笑いはもちろん浮かべる。それでもこのようにいつも通りの笑顔は決して浮かべなかった。
それが楽しそうに笑っていた。
アリスの知るエレオノーラに違いない。嫉妬に狂う姿よりこんな風に、なんでもないことのように大らかに笑っている方がアリスの知っているエレオノーラらしい。
しかし。
そのらしさは物語的には見逃すことのできないほど大きな異常事態だ。
あまりの違和感にいまいち状況を整理できないまま、アリスはエレオノーラに連れられ、王子とミュリエッタを横目に寮へと向かった。
――なんだかエレオノーラ様の様子がおかしい。