馬鹿ばっかり
「ミュリエッタ嬢、大丈夫か」
王子は地面に伏せるミュリエッタに自ら手を差し出した。
縋るようにミュリエッタがその手を取るのを見てますます形の良い眉をつりあげた。
彼女を自分の背に隠すようにして令嬢たちと向い合せる。
「何があった」
王子は低い声で尋ねた。怒りのにじむ声にびくりとクラリッサが肩を揺らす。王子の後ろでは兄のレイノルドが冷めた目で彼女のことを眺めていた。
他の令嬢たちもとばっちりを食らわぬようさっと顔を伏せた。
威圧され怯える彼女たちでは埒が明かないと思ったのか、王子はエレオノーラへと視線を移す。そして彼女の惨状に目を丸くした。
頭からジュースをかぶったせいで髪も顔もぐっしょりと濡れ、制服はその白さが仇となり大きなシミができている。エレオノーラに動じた様子はないものの、今までにこんな姿の彼女を見たことはない。
エレオノーラに視線が集まったのを感じ取ってアリスは咄嗟に背に彼女をかばった。
こんな姿を大勢にみられて気分がいいわけがない。しかもあの完璧主義のエレオノーラがである。
「オルデン子爵令嬢が突然バランスを崩して持っていたグラスの中身をこぼしたのです。それでエレオノーラ様を汚したのでマクマホン様がお怒りになり彼女を突き飛ばしました」
アリスは王子に向かって頭を下げ、手短に状況を説明する。その場を見ていた人は多いだろうから事実は証明できる。
とにかく早くエレオノーラを寮に返さなければならない。
こんな状況でもなければ、なんのことか訳が分からないとばかりにしらを切って王子の嫌悪感を煽っていただろうが、今はそれどころではない。エレオノーラの名誉のためにもとにかく早くこの場を切り上げなければ。
しかし空気の読めない、否、空気を読まない者というのはそういう時にこそいらぬ口を開く。
「そんなことでか弱いご令嬢に手を上げたんですか?」
場違いな声が響いた。アリスの顔がぴしりと固まる。
声の主はニコライだ。
「別にケガをしたわけではありませんよね? それにどうしてハミルトン公爵令嬢ご本人ではなくそのご友人のマクマホン侯爵令嬢がお怒りになるのですか?」
「もしかして」
「ミュリエッタ嬢がバランスを崩したのはあなたが足でもかけたのでは?」
シン、と静まり返った場をいいことにニコライが好き勝手な推測を述べる。それは被害者でもあるエレオノーラに対してあまりにも無礼で筋違いな悪意の表れだった。
そもそもニコライはハミルトン家をよく思っていなかった。
財務省の高官である父がハミルトン公爵と対立した途端に急に立場が悪くなり、最後は身に覚えのない罪で免職されてしまった。それ以来パルニーニ家は社交界のつまはじきものにされたのだ。こうしてニコライが王子と親しくなったことで父は再び職に戻ることができ、幾分か悪意は和らいだが、ニコライのハミルトン家に対する疑念はぐるぐると腹の底で渦巻いていた。
主人である王子の婚約者がハミルトン家の者であることがそもそも気に食わない。ここで彼女を貶めるチャンスがあるのならば躊躇わず利用してやる、そう思っていた。
その上彼にしてみれば、この場で騒動を引き起こした主犯はエレオノーラに決まっている。
そして不幸にも今のこの状況はエレオノーラにとって分が悪い。エレオノーラにはアリスやクラリッサをはじめとした多くの強い見方がいる中、ミュリエッタは己一人で身分も弱い。王子にちょっかいをかけるミュリエッタに、大勢の手下を従えて嫌がらせを仕組んだのでは、と思われても仕方がないのだ。
「違います…っ! わたしが悪いんです!」
さらにミュリエッタから追い打ちがかかる。彼女としてはこの流れを止めようとしているのだろうが、完全に逆効果だ。
エレオノーラは眉一つ動かさない。対してミュリエッタはすみれ色の瞳に大粒の涙を浮かべて必死にこの場を収めようとしている。
ミュリエッタに対して同情的なムードが流れ始めていた。
エレオノーラを悪役にしたければこの展開は間違いではない。これに近しいことは毎回起きていたのだから。
(でも……)
「一理ある。どうなんだ、エレオノーラ」
王子はミュリエッタの様子でニコライに賛同することを決めたようだった。
(一理ある、ですって?)
ぶつりと堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた。
「お言葉ですが」
ふつふつと煮えたぎる怒りから生まれたような声だった。憤然とした面持ちでアリスは頭を持ち上げた。ダメだと分かっているのに口が止まらない。
「殿下がこの場で最も気遣うべきは婚約者であるエレオノーラ様ではないのですか?」
「ほう?」
不敵な顔で王子がアリスを見下ろした。アリスも王子の視線を真っ向から受け止めていた。
もう既に十分に為政者の卵として並々ならぬ威圧感を備えている王子を前にしてもアリスは一歩も引いていなかった。
どうせこの身は後々滅ぼされるのだ。今王子に無礼を働いたからと何か罰が与えられても怖くもなんともない。
「ミュリエッタ嬢には手を差し伸べていらっしゃいましたが、エレオノーラ様には大丈夫かの一言もありません。あまりにもエレオノーラ様が哀れだと思われませんか」
腹が立ってしょうがなかった。元々こちらには何の非もないのに、ミュリエッタの粗相でエレオノーラは飲み物を頭からかぶる羽目になり、その上家格も人柄も大したことないちょっと口がたつだけの馬鹿に侮辱されている。
こうして辱めを受けたまま何の関係もないエレオノーラにこの場の説明をさせようというのか。罪人でもあるまいに、あまりにもひどい仕打ちだ。
ストーリー的にはエレオノーラに対する王子たちの反感を煽るいいチャンスだったと喜ぶべきなのかもしれないが、今回の一件はアリスにとってあまりに耐えがたいものだった。
なぜならエレオノーラにミュリエッタをいじめる意志は無かったから。もっと早い段階から苦しめることはできたのに、なぜかいつもと違ってエレオノーラにミュリエッタを害する気持ちはない。
だからアリスは独断で役目を果たそうと考えていたのに。
いくら悪役だからっていわれのないことで罪を着せられる筋合いはない。
どうせ裁かれるのならもっといろいろなところに爪痕を残してからだ。こんなぬるい真似では済まさない。
「何もやましいことがないと言うのならば、もっと詳しくご説明していただけませんか」
ばちばちと火花を飛ばしてにらみ合うアリスと王子の間にニコライが割り込む。
アリスはぐりんと顔だけをニコライに向けると激しい嫌悪を露わにする。
そして開口一声こう言った。
「今すぐメガネを作り直してこられたら?」
「は?」
「エレオノーラ様のご様子がちゃんと見えていないのでしょう? そうでなければあなたが隣国で学んだことは女性の辱め方ですか?」
「なっ」
ニコライは怒りで顔を赤く染めた。
彼にとって2年の留学は数少ない誇りの一つである。そんな風に馬鹿にされていいものではなかった。
勿論、アリスは分かってやっているのだが。
アリスは口元に手をやってニコライをせせら笑った。図らずもその姿はまさしく悪役のようだった。
「こんな姿のまま皆様の前でくだらぬ疑いを晴らせと仰るのですか? エレオノーラ様はあなたの主人の正式な婚約者ですよ? いつから辺境の子爵令嬢は婚約者より重んじられるようになったんです?」
「貴様!」
「ニコライ! 落ち着け! シュキアス嬢もさすがに言いすぎだ」
いきり立つニコライに慌てて王子が仲裁に入る。
しらっとした顔で「申し訳ありません」とアリスは棒読みで心にもない謝罪をする。
アリスの怒りは王子にも等しく注がれていた。
「そもそもは……」
アリスが王子へ苦言をていそうとした瞬間、エレオノーラがアリスの手を抑えた。
もういい、とばかりに首を振る。
そして自らが王子と正面から向かい合うように体を前に出す。
アリスの存在は自然と自分より背の高いエレオノーラに隠された。
「ご覧の通り、わたくしもこのような恰好ですので、ここはわたくしに免じてお怒りを治めていただけないでしょうか?」
「この状況を見過ごせと?」
「そうでございます」
「できない」
(気遣いの言葉もなくそれ!? いくらあの子に一目ぼれしたからっていきなり甘すぎるわ!)
アリスはエレオノーラの後ろでますます怒りの炎を燃え上がらせた。
「誰がこの状況を導いたと思っているのですか?」
だがエレオノーラとてアリスにかばわれるばかりではない。元々そんなひ弱なご令嬢ではないのだ。言いたいことがあれば王子相手でもはっきり言ってしまう。
淡々と、しかしはっきりとした声でエレオノーラは言った。
王子は怪訝そうに眉をひそめた。そして「誰だ」と聞く。
「あなたですよ、殿下。王子ともあろう存在が、これだけ大勢の目があるところで一人の令嬢に長い間かまけていらしたら彼女が反感を買うのは当然のことでしょう? それにわたくしはあなたの婚約者ですので。わたくしのお友達がこのように彼女に敵意をむき出すのも仕方のないことだと思いませんか?」
「!」
今更気付いたように王子は目を見開く。誰だって分かりそうなものなのに、そんなことにも思い至らないなんてよっぽどミュリエッタに一目ぼれしてしまったらしい。
王子からエレオノーラに返す言葉はない。
「それにあなたもです。仮にも貴族として名を連ねているのならそれ相応の振る舞いをなさい。今回はこちらも手荒い真似をしてしまいましたのであなたばかりを責めることはできませんが、ここまで大事になったのはあなたの不注意のせいですわ」
続けてミュリエッタにもそう告げる。こちらは王子に対するより少し優しさの残る声だったがミュリエッタにそれが感じ取れたかは分からない。
ミュリエッタの顔には後悔が浮かんでいた。しでかしたことの大きさは、彼女自身が一番よく理解しているようだった。
黙った王子と反省したようなミュリエッタを見てエレオノーラは小さく頷いた。
「さて、このままでは風邪をひいてしまうのでわたくしは一度失礼させてもらいます。詳しい話が聞きたいのならばまた後日にしてください。それでは」
ちらり、と最後にニコライを見たが底冷えするようなその瞳には何の感情も浮かんでいなかった。しかしだからこそニコライは首筋に刃物を向けられているような、そんな錯覚を覚えた。ごくりと生唾を飲む。
アリスの目にエレオノーラはこの場の誰よりも美しく輝いていた。
髪はぐちゃぐちゃ、白い洋服も無残なシミができてしまっているのに、優雅にカーテシーをする主人が誇らしくて、悲しくて。
ぐっと唇をかみしめて俯くアリスの手を引いて、エレオノーラはその場を堂々と抜け出した。