増えた重り
きぃっと静けさに満ちた廊下に扉の開く音が響いた。そろそろと忍び足で小さな影が部屋から出てくる。
白いワンピース、耳の下で二つに結ばれた赤髪。この間街に出かけた時と同じ格好をしてアリスは再び日も昇りきらない早朝から出かけようとしていた。
手に持った鞄の中には古びた日記帳が入っている。
令嬢たちは基本的に朝に弱い。起こしてくれるメイドたちがいないとなると今朝も誰とも遭遇せずに寮を抜け出せるだろう。
そう思っていたのだが。
「シュキアス様」
まるで泥棒のような足取りで廊下を進んでいたアリスの背に凛とした声がかけられる。
びくりと肩が揺れて足が止まった。こんな時間に起きている人なんて一人しかいない。
「エ、エレオノーラ様…おはようございます……」
そろりと首だけで振り返ると腕を組んでこちらを厳しい目で見つめる主人の姿がある。薄手の上着を肩につっかけたネグリジェ姿は彼女が寝起きであることを物語っていた。少し乱れた金髪や襟元は危うい色気を醸し出しており同性だというのに頬を染めてしまいそうになった。
「ちょっとついていらっしゃい」
珍しくエレオノーラはお怒りの様子だった。小さいがひしひしと怒りが伝わってくる声に気圧されてアリスは大人しくエレオノーラの後ろをぴたりとくっついて行く。
行先はエレオノーラの部屋だった。
アリスを中に招き入れるとエレオノーラは静かに扉を閉めて、鍵をかけてしまう。それから気だるげな足取りでソファへと腰かけた。部屋の入口で突っ立ったままのアリスを招き寄せて自分の向かいに座らせる。
「シュキアス様、今何時だと思っていらっしゃるの?」
「朝の5時…です」
「そうよ、朝の5時。こんな時間にどこに行こうとしてたのかしら」
「街へ少し、買い物へ行きたくて……」
「私が知っている限りでこんな時間に営業しているお店はないわ」
「あの…、美味しいパン屋さんがあるんです」
「あなたはパンの為にこんな時間に部屋を抜け出すのかしら」
「うっ」
まるで親に叱られる子供のように小さくなりながらも、苦し紛れの言い訳をするアリスにエレオノーラは深々とため息をついた。
追及したいことはたくさんあるが、別に彼女を責めたいわけではない。
「この間街で倒れたことをもうお忘れになったの…? その時もどうせこうして早朝に出かけて無理をなさったのでしょう。それにいくらこの街が安全といえど絶対ではありません。もし犯罪に巻き込まれるようなことがあったらわたくし悲しくて泣いてしまうかもしれないわよ」
血のにじむような王妃教育でさえ一度も弱音や涙を見せたことのないエレオノーラが言うと全然説得力がないのだが、その姿は本当にアリスを心配しているようだった。
しゅん、とアリスの肩が下がる。主人にいらぬ心配をかけてしまった。
エレオノーラはもう一度小さくため息をつくと、すくと立ち上がりベッドサイドの引き出しから鈍く光る金色の鍵を取り出し、アリスの前へと置いた。
「王族とそれに連なる者が何かあった時に身の安全を図るため、この国にはいくつか抜け道があります。これはそのマスターキーですわ。鍵穴しかない扉があったらそれを差し込んで反時計回りに一回転させてください。そちらは予備ですので差し上げます」
(王族専用通路のマスターキー!?)
そんなもの、受け取れるはずがない。
アリスは首をぶんぶんともげそうになるくらい激しく横に振った。
「いただけません! 私は王族と何のつながりもありませんし、もしそんな風に使っているなんてバレたら…!」
「使うために作られたものなんだから使えばいいのよ。それに私の心の平穏を守るためなのだから使い方としても間違っていませんわ。シュキアス様に拒否権はありません」
そう言ってアリスの手を取り、しっかりと鍵を握らせる。
「何かあった時に使えますから肌身離さずお持ちになってね。もしかしたらその鍵がわたくしを救うことだってあるかもしれないのですから。ね?」
きゅっと手を握りこまれて輝くような笑顔で言われてしまった。
またしても渋々アリスは頷いた。
つい最近どこかで同じようなやり取りをした覚えがある。値段のつけられなさそうなものが自分の周辺に次々と集まるこの状況に恐怖を抱かずにはいられない。
この鍵にしてもネックレスにしても、全てがずしりと重たい存在感を放っている。
「この階の最奥、つまりわたくしの部屋を出てすぐ左ですわね、そこにも鍵穴がありますわ。そこを通ればきっと誰にも見つからずに学院の外に出られるはずですので。きっとその格好を誰にも見られたくないのでしょう?だからといって今日のような行動は控えるように」
「はい、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした…」
「いいのよ。そしたら私はもう少し眠るからシュキアス様も自室でゆっくりしてちょうだい」
こくりと頷いた。エレオノーラは素直なアリスの頭をよしよしと撫でるとふと思いついたように言う。
「勿論、受け取ったからにはその鍵を使うのよ?私の涙とパン、天秤に乗せてパンの方に傾くことはないと思うけれど」
パン? と首をかしげてからハッと先ほどの自分の言葉に思い至る。
先ほどの言い訳をうまく使われてしまったのだ。アリスは恥ずかしさに頬を膨らませた。
「もう! 私はそんなに食いしん坊ではありません!」
ぷりぷりと怒るアリスの背を押しながらエレオノーラはクスクスと笑っていた。
*
広場に足を踏み入れて割にすぐにノアの姿は見つかった。相変わらず人通りは多かったがノアの姿ははっきりとアリスの目に飛び込んできたのだ。
ノアはベンチに腰掛けながらぼうっと空を見上げていた。そんななんてことない姿でさえまるで絵画のように美しいのだから本当に罪作りなものだ。
あ、とアリスの中にあるたくらみが生まれる。それを実行するべく、わざと正面からではなく回り込んでノアが座るベンチへと近づいた。
本当に些細ないたずら心だ。
空を見上げるノアの後ろに静かに近寄ると後ろからぱっと顔を出す。
「こんにちは」
案の定ノアは目を丸く―――はしてくれなかった。
どころかにやりと意地の悪い顔をしている。
「あんな風に突然回り道したらバレバレだよ、アリス」
「気付いていたんですか……」
今日は朝っぱらから失敗ばかりだ。アリスはまたしても恥ずかしさに頬を膨らせることになった。
「まぁね。それより体調は大丈夫? 来てくれたってことはあの手紙を読んでくれたんだね」
「はい、先日は色々とご迷惑をおかけしました」
「体調が悪いのに気付かなった僕も僕だから。それよりまさか今日来てくれるとは思わなかった」
「毎週末広場で来ない人を待たれても困りますから…」
「優しいね」
咄嗟に言葉に詰まった。その柔らかい微笑みに心を奪われたからとかではなく、優しい、という言葉にあまり縁がないものだからどう返していいのか分からなかった。
ほわりと暖かい気持ちが灯ったのをごまかすべくせきばらいをしてアリスは改めて礼を述べた。
「今日はちょっと見せたいものがあるんだ。早速だけどついてきてくれる?」
そう言うとノアはすくりと立ち上がった。
(わざわざどうしてここに……)
あからさまにアリスの顔がげっそりとしていた。
連れてこられたのは先日ノアと出会った公園だ。
先週に引き続き人は広場に集中しているのでぱっと見アリスの目にうつるのは凶悪な灰色の集団だけだった。
「もしかしてさっきのことを根に持っているんですか…?」
アリスがそんな風に言うものだからノアは声を上げて笑ってしまった。
笑い声に反応するように突然バサバサと勢いよく鳩たちが飛び去って行く。
「!」
彼らが動いたのはノアの笑い声のせいではなかった。太陽を背にひどく大きな黒い影が真上に迫っている。
影はそのまま鳩たちを追い立てるように急旋回するとしばらくうろうろと空を駆け回り、アリスの視線を釘付けにしたまま満足げに地面に降り立った。
「見せたいものっていうのは彼のことだよ。アーク!」
ノアの声にぱっとこちらを向くと、アークと呼ばれた黒い鳥はぴょんぴょんと跳ねるようにしてこちらにやってくる。その滑稽な動きに思わずアリスの心はきゅっとときめいた。
しかし近付いてくるにつれてあれ、とアリスは違和感を抱く。
何と言うか―――。
「めちゃくちゃ大きいなぁ、って思ってる?」
「はい。この子はカラスですよね? にしては大きすぎるような……」
ぴょんと跳ねて目の前で止まったカラスの大きさは中型犬、下手をすると大型犬くらいの大きさだった。しっとりと濡れるような黒い目は猛禽類のように鋭いし、立派なかぎ爪まで持っている。みっちりと詰まった羽は一枚一枚がペンの芯になりそうなくらいに立派だ。
「はは、確かにちょっと大きい種類なんだよね」
(ちょっと……?)
これをちょっとで片付けてしまっていいのかは疑問に残るがとりあえずは無視することにした。
「連絡手段ないと困るだろうなって思って家から送ってもらったんだよね。何かを運ぶことに特化したカラスで、名前はアーク。専用の笛を吹くと飛んでくるから手紙とかちょっとした荷物くらいならこいつに預けちゃって。僕からの手紙もアークが持ってきてくれるから」
「…住処を教えろ、とは言わないんですね」
こんな手間をかけずとも住所さえ知っていれば郵便が出せる。これではまるでアリスが素性を隠したがっているのを知っているようだった。
真意を探るようなアリスの目を受けて一瞬目を丸くしたノアは次の瞬間にはあからさまな作り笑いを浮かべた。
「まぁ、僕も聞かれても答えられない、いや答えたくないことの一つや二つくらいあるからね」
頭の中によぎったのはこの間の粗野な三人組の言葉だ。
みなし子、とノアが呼ばれていたことはアリスも覚えている。
「あとは最近出番がなくてこいつも暇してるみたいだったから、かな。訓練の一環でもあるしあんまり難しく考えないで」
そうしてノアが差し出してきたのは透かし彫りの入った筒形の笛だ。アークを呼び出すための笛とやらだろう。
「また増えた……」
「ん?」
「いえ、もう気にしないことにしました」
「よく分からないけど素直に受け取ってくれてありがとう」
「確信犯ですよね?」
鍵も笛も、全部ご丁寧に鎖が通せるような穴がついている。
あとであまとめて首に下げられるような鎖を探して一緒くたにまとめてしまえ、とアリスは決意した。
「アリスが住んでいる場所をアークに知っててもらわないと僕からの手紙が届かないから最初はアリスから送ってね。笛を吹いてしばらくしたらやってくると思うから窓を開けたままにしておいて」
どうにでもなれ、とアリスはこくりと頷いた。