冷たい眼差し
学院が本格的に始まってから、一週間が経過した。
狭い貴族というコミュニティの中で、しかも同い年ともなれば、大体は知り合いである。入学したてとはいえもうすでに教室の中ではしっかりとグループが生まれていた。
もちろん最大派閥を率いるのは王子の婚約者でありハミルトン公爵家のご令嬢であるエレオノーラである。
15歳から18歳までならいつ通ってもいいという性質上、エレオノーラの周りには自分より年上のご令嬢もいるわけだが、その力関係は歴然としていた。まだ15歳ながら醸し出す雰囲気は別格だ。
アリスはわらわらと主人を取り囲む令嬢の山を見て、見慣れた光景とはいえ呆れずにはいられなかった。
全ての日程が終了した後、ここ毎日のようにこの様子を目にしている。
貴族には2タイプいる。できるだけ権力者にすり寄りたい野心派と、事なかれ主義の堅実派。残念なことにエレオノーラの周りはほとんど前者だが。
後者はそもそもエレオノーラには近付かない。1年という短い間にそれとなく仲の良い友達を作って、卒業し、社交界にデビューしたらとっとと婚約者でも見つけて、領地にでも帰ってのんびり暮らせれば幸せ、といった感じだろうか。
人脈を作ることに興味のない者はこの一年間はほとんど何も得るものがない。適当に楽をして一年間をやりすごすに限る。
まれに学園での学びに期待を持ってくる者もいるが、それはよっぽどの田舎者くらいだ。
そして今回、その田舎者はくしくもアリスとエレオノーラと同じクラスのようだった。
ちらりと左後ろの席を見る。ミュリエッタはそわそわと誰かに話しかけたいような顔をしてあちこちにすみれ色の目を動かしていた。
ここ一週間くらいずっとあの調子だ。どこかの輪に混ざりたいがなんとなくタイミングがつかめない。結局誰に話しかけるでもなくとぼとぼと教室を後にするのが連日の流れだ。
まぁアリスがどうこうする気もないので放っておく。彼女がいつものように渋々席を立ち上がったのを見て主人の方へと意識を戻した。
(さすがにそろそろ止めないとダメね)
これ以上エレオノーラに群がるのを放置していては、ますます彼女たちが調子づいてしまうような気がした。そのたくらみをさっさと邪魔しにいかなければならない。
おもむろに席を立ちあがった。
アリスは野心家ではないが事なかれ主義でもない。だからエレオノーラを取り囲む令嬢たちに牽制をかけるのだって苦ではない。
「みなさま、そうしていっぺんに話しかけられたらエレオノーラ様が混乱してしまうわ」
「あら…シュキアス様、ごめんなさいね。いつもあなたがエレオノーラ様を独り占めしてしまうものだからつい」
「まぁ、だからといって仲間外れにしないでくださいませ。寂しいですわ」
しゅん、と悲し気な表情を浮かべて見せるがアリスの目はバチバチと闘志を燃やしていた。
対するマクマホン侯爵家のご令嬢、クラリッサもいらない虫が戻ってきたでも言わんばかりの不敵な笑みを浮かべている。
マクマホン侯爵家の長兄でありクラリッサの兄であるレイノルドは王子の側近でありアリスにとっての敵である。クラリッサも王子の婚約者であるエレオノーラと近しい関係になろうと必死なのだ。
その上身分が同格ということもあって二人はエレオノーラを巡って長年敵対関係にある。要はとてつもなく仲が悪い。
「シュキアス様は明日用事があるから、と仰っていたのでてっきりもうお帰りになるのかと…。お忙しいところご迷惑をおかけするわけにも参りませんし…」
「明日用事があるからと本日忙しいわけではありませんので大丈夫です。折角ですので私も皆さんに輪に入れてくださいな」
ここまで言ってアリスを無視するわけにもいかない。まぁそんなことをしなくても何かをするとなったら必ずエレオノーラはアリスを誘うのだが。
「今マクマホン様からお茶に誘われていましたの。シュキアス様も参加なさいますよね?」
「もちろんです、エレオノーラ様」
エレオノーラがアリスを誘うと令嬢たちはあからさまに落胆した色を醸し出す。クラリッサに至ってはふいとそっぽを向いた。いくらエレオノーラに見えないからと言ってあからさまに邪険な態度をとるクラリッサにアリスは呆れてしまう。
彼女たちはアリスがいては自分たちがエレオノーラとこれ以上親しくなることはできないと分かっているのだ。アリスは目の上のたんこぶだろう。
「それでは参りましょう」
渋々といった様子のクラリッサの一言でエレオノーラを筆頭にした集団がぞろぞろとテラスに向かって移動し始めた。
*
「あら?」
席に座った後、鞄を預けるというところでアリスはその中にお気に入り本がないことに気が付いた。
この間ノアと一緒に買ったシリーズ物の一つで、もう少しで読み終わるところである。このお茶会が終われば自室でゆっくり楽しもうと思っていたのだが。
お茶会が終わってからでは学校に向かうのは遅くなってしまう。
「どうされました?」
「いえ…、教室に本を忘れてきてしまったようで……」
気付いたエレオノーラが声をかけてくれる。
「あら、最近ずっと持ち歩いていらした本ね。終わってからでは遅くなってしまうだろうし…、折角だから取りに戻ります?」
よっぽどアリスが残念そうな顔をしていたのかそう提案してくれた。
本当は離れたくないがエレオノーラについてきてもらうのはさすがに気が引けてしまう。ふるふると横に首を振った。
「いいえとんでもございません。エレオノーラ様はこちらで皆さんとお話していてください。急いで取って来ますので」
「分かりました。お気をつけて」
そうして再びアリスは元来た道を戻った。
少し速足で教室まで向かう。授業が終われば皆学舎からはさっさと退出してあちこちに散らばってしまうので廊下も教室も閑散としていた。
だから誰もいるはずないと思っていた。
アリスはようやくたどりついた教室の扉を引く。
「………」
神様のいたずらか、そこにはミュリエッタがいた。
しかも他に誰もいないせいでそのすみれ色の瞳は真っすぐにアリスの方を向いている。
アリスの顔を見て、途端にミュリエッタは顔をほころばせた。
彼女の心を推し量るならば、やっと話しかけるチャンスがきた! といったところだろうか。
扉の前で固まっていても仕方がないので一歩中へ足を踏み入れる。どうしてかミュリエッタはアリスの席の前に立っていて、その手にはアリスが置き忘れた本があった。
「あ、あの! これ……アリスさん、の本ですか?」
きゅっとアリスの眉根が寄る。いくらクラスメイトといえど、ミュリエッタと会話を交わしたことはない。親しい間柄でもないのにいきなり名前で、しかもさん付けなんて。
「ええそうです、オルデン子爵令嬢。返していただけますか?」
冷たいアリスの声にうっとミュリエッタが怯む。そして落ち込んだ表情でぎゅっと本を握りしめた。
「あ、あの……わたし、その、田舎から出てきたばかりで……、皆さんに知らず無礼を働いてしまっているんでしょうか…」
知るか、と言いたかった。なんでそんなことを聞かれなければならないのだろうか、とアリスは余計に眉をひそめる。しかし俯くミュリエッタにアリスの表情は見えていなかった。
本を取りに戻ったのに本を人質に取られてしまってはしょうがない。
はぁ、と小さくため息をつくとミュリエッタの方がびくりと小さく震えた。
そもそもミュリエッタと同じクラスになるとは思っていなかった。彼女はいつも親友になるはずの令嬢と同じクラスだったはずなのに。
本当に今回は想定外のことばかりが起きていてアリスにも訳が分からない。
気に食わないがここでミュリエッタに潰れてしまっては困る。物語には彼女の存在が不可欠なのだ。
彼女のケアをするなんて本当の本当に気に食わないが、仕方なく少し相手をしてやることにした。決して震える彼女が哀れだからではない。
「確かに無礼ではありますね。ですが、あなたは色々と貴族の中の常識を知らなすぎる。ここで誰かと関わりたいのならば、まずは色々と知識をつけた方がよろしいかと」
このクラスは比較的野心派の貴族ばかりだ。オルデン子爵家なんて田舎の貧乏貴族は相手にされなくて当たり前だ。
「知り合いが一人もいなくて…、その、本当にひとりぼっちで不安なんです」
すみれ色の瞳からは今にも大粒の涙が零れ落ちそうだった。
ほわりと朱色に染まる赤色の目尻、なにかをこらえるように食いしばられた桃色の唇、今にも折れそうなほど華奢な身体、確かにこれを見たら誰でも自分が守らなくては、という義務感に駆られてしまうかもしれない。
といってもアリスは例外だが。
「はぁ…、左隣のクラスにバーミリオン伯爵家のご令嬢がいます。高潔でお優しい方なのできっとあなたの相談にも乗ってくださると思いますよ」
件のミュリエッタの親友だ。王子の側近の婚約者なので彼女伝いに王子とも再会できるだろう。どうしてわざわざ自分で自分の破滅を招かなくてはならないのか、甚だ遺憾だがしょうがない。
不機嫌な表情のままアリスが親友(予定)の令嬢のことを教えてあげるとミュリエッタはうるうるとした目のまま大きく頭を下げた。
「ありがとうございます!」
そんなミュリエッタの姿に気味の悪さを感じた。
「私はあなたのお友達になってあげられないから他人をあたれ、と突き放したつもりですがどうして感謝されるのでしょうか?」
「アリスさんはわたしを無視しませんでしたから…、しかも他に頼れる人を紹介してくれています」
「あなたが私の本を人質にとっているからです。人を待たせているのでよろしければ早く返していただけませんか?」
「えっ、あ! すみません!! 思わず抱え込んじゃって…」
そう言って慌ててこちらに本を差し出してくれる。それを受け取るとさっさとアリスは踵を返した。長居は無用だ。
「あの…その本、アルデバランの英雄譚ですよね…? 戦記がお好きなんですか…?」
返事をするつもりは無かったのにアリスの足がぴたりと止まってしまう。後悔してももう遅い。
「わたしもその本が大好きなんです! 戦記は皆さん過激だって仰られるからまさかお好きな方がいらっしゃるなんて!」
いかにも興奮したような声が後ろから聞こえてくる。
まさか敵が同じものを好んでいるなんて知らなかった。
アルデバランの英雄譚は戦記の中では異色の物語だ。重苦しくて救いのない展開ばかりだし、主人公が一度は世界の敵として誤解されてしまう。ロマンス好きのご令嬢は勿論のこと令息たちにさえ受けが悪い。
もしミュリエッタがミュリエッタでなければその場で手を取って語り合ったかもしれない。
しかしミュリエッタはミュリエッタだ。
慣れあうわけにはいかない。それは将来自分を断罪する彼女にとっても。
ぐっと本を抱える手に力が入った。エレオノーラの氷の眼差しを思い出してそれを再現するべく努める。
アリスは顔だけ振り向いて、喜色満面の笑みを浮かべるミュリエッタを再び突き放すべく冷徹な声で言った。
「別に、ただ読むものがないから読んでいただけです。勘違いなさらないで。それから、あまり私になれなれしくするのもおやめください。不愉快です」
それから返事を待たずに教室を後にした。