噛ませ犬
翌朝、アリスは宿の前でノアを待っていた。昨日夜に一人で出歩くなんてとんでもない、と宿まで送ってもらったのだが今日も迎えに来てくれることになっていた。
それにしても、今日はなんだか少し体が重たいような気がする。いきなりあちこちと出歩いて色々な経験をしたものだから疲れが抜けきらなかったのかもしれない。
(迷惑をかけてもいけないし…今日は早めに宿に戻らせてもらうことにしよう)
そう決めてふと空を見上げるとエレオノーラのことが頭をよぎった。今頃王城で何をしているのだろうか。どこにいても監視されているような、息の詰まる場所だから早く戻ってきてほしい。
学園街があるルシアンは王都ロブロイから馬車で大体半日ほどのところにある。
ルシアンと王都は鉄道で繋がっているので、汽車を利用すればさらに時間を短縮できるがエレオノーラはあまり汽車を好まない。乗り物酔いが激しく、体調を崩すからだと聞いた。
いざとなればすぐに王城にだって顔を出せるだろうにわざわざどうして主人の自由な時間を奪うのか、心の中にもやりとしたものが生まれた。
「おはよう、浮かない顔だね」
声を掛けられた方に顔を向ける。そこには片手を上げたノアの姿がある。
「おはようございます、ノア様。迎えに来ていただいてありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。ノアは形の良い眉を寄せていた。
「どうかされました?」
「昨日も思ったんだけどノア様ってやめない? 同じ平民同士なんだし。その敬語も」
「しかし…」
躊躇うように口元に手を当てる。なんとなく主人と似た雰囲気のノアを呼び捨てする気分にはなれないがここでかたくなになってもしょうがない。それに、たとえ否やを言っても結局この青年の思う通りになってしまうのだから。
ふ、とアリスの表情が緩んだ。
「いえ、そうですね。それではノア、とお呼びしても? 敬語は癖なんです。だから気になさらないでください」
ノアも嬉しそう頷いた。
「それじゃあ今日はグレイグース区にでも行こうか」
グレイグース区は東大通りを挟んだベルヴェデール区の向かいの区のことである。学園街とルシアンの街を結ぶ門がある地区であり、学園街にある四つの区の内では最も人が多い場所でもある。ただし現在は広場に人が集まる季節のためいつもよりゆっくりと見て回ることができる。
学園街にやってくるとき大通り沿いに大きな書店があるのをアリスは見ていた。今回こそは必ず訪れようと心に決めていたから早々にチャンスが回ってきたことに心が躍る。
今にも小躍りしそうな様子のアリスを横目にノアは目じりを落とした。
*
「疲れましたね……」
肯定の言葉は返ってこないが否定の言葉もかえってこない。完璧な笑顔でにっこりと笑われてしまうだけなのでアリスは余計に身体が重くなるようだった。
グレイグースの書店は想像以上の素晴らしさだった。書店というより最早図書館といった方が相応しいほどの蔵書数、内装も本好きの心をくすぐるような重厚な作りであるのにいたずら心も忘れておらず。目を輝かせるアリスに、仕掛けのある本棚を紹介している店主の顔は誇らしげだった。
そこで後先考えずに大量に本を買い込んでしまった結果、ノアの手前貴族舎に送ってほしいとも言えず、困るアリスを見かねてノアが犠牲になってくれたというわけだ。ベンチに腰掛けるアリスの横にうず高く積まれた紙袋の中身は全て本である。勿論運んだのはノアだ。
その後休憩のために一度広場に寄ったのだが、その頃にはすっかりアリスもノアも疲れ果てていた。
「あの、本当にすみません……」
ノアが何も言わないからかアリスが本当にすまなそうな顔でそう謝る。その頭に垂れ下がる赤色の耳が見えたような気がしてノアはくすりと笑ってしまう。困ったように揺れる蜂蜜色の瞳をもう少し鑑賞していたいところだが、そろそろ可哀そうだろうか。
「全然問題ないさ。それより少し喉が渇かない?飲み物でも買ってくるよ」
「あ、それなら私が…」
「いや、さっきからなんだか顔色があまり良くないからここで少し休憩してて!」
そう言うとアリスの返事も聞かずにノアは走り去ってしまった。
その背中を見送りながらほっと一息つく。申し訳ないが確かに先ほどからあまり調子が良くない。体はどんどんと重くなる一方だし、書店を出たあたりからじわじわと汗が噴き出している。それなのに体はどんどんと冷え切っていた。自然と体からは力が抜けて瞼が落ちる。
やはりノアが戻ってきたら今日は謝って一度宿に戻った方がいいだろう。
俯くアリスの前に影ができた。
(あれ…もう帰ってきたのかな…)
つ、と首を持ち上げる。それすらも億劫に感じた。
「レディ、お暇ですか?」
(……誰?)
アリスの目の前にいたのはきらびやかしい恰好の青年だった。男にしては長い金髪を赤色のリボンで一つにまとめ、横に垂らしている。顔立ちは悪くないのかもしれないが目つきがなんとなく薄気味悪くてあまり好感は持てない。薄ら寒い笑みを浮かべている口元もマイナスだ。
後ろに二人お付きのような者を従えているところから見て貴族か裕福なところの子息だろう。
相手にするのも面倒だが今のアリスはただの平民なので無視して顰蹙を買うのも良くない。当たり障りのない返事を返すことにした。
「いえ、今人を待っていますので」
「おぉ! そんな嘘をつかれなくても! お一人で退屈していらっしゃったのでしょう?」
この量の本を娘が一人で持てると思っているのだろうか。どう考えても連れがいると分かるはずなのに何故か目の前の青年は少し自分に酔っているようだった。
「我々は今から観劇に行くのですが良かったらレディも一緒にどうですか? その後夕食もご馳走しますよ」
「いえ、ですから連れがいますので。すみませんが別の方を誘ってください」
きっぱりと告げる。しかしそれでも男は懲りない様子だった。後ろの二人も止めに入るどころか主人と同じ気持ちの悪い顔でこちらの様子を伺っている。
これではお里が知れるというものだ。絶対に貴族としても親交を持ちたくないし、商人なら絶対にこの店の商品は二度と買わない。
「そうつれないことを仰らず! あなたのような方にはきっと良い経験ですから」
するりと生ぬるい手がアリスの手をすくいあげる。生理的な嫌悪にたまらずアリスはその手を弾き飛ばした。
「なっ!?」
男も、その後ろの二人も驚愕したような顔をしていた。
「勝手に女性の手に触れてはいけないと学ばれませんでしたか? 私は無礼な人は嫌いです」
一人でベンチに座って俯いているから気弱そうに見えたのかもしれない。しかしアリスとて令嬢たちの間でエレオノーラの側近として渡り合ってきているのである。無礼な相手に言いたいことも言えずに流されるような性格はしていない。
「このっ! 調子に乗りやがって…!」
「いかにもな台詞はやめてくださいませんか? まるで三下のようで聞いていて哀れです」
へらへらと気味の悪い笑顔を浮かべていた男の顔はあっさりと崩れ去っていた。さすがに女に手を上げる程愚かではないようだが、ぶるぶると手が震えているところを見るに結構現界らしい。後ろの二人も揃って主人に同調している。情けなくてため息がでた。
「お前本当に!!」
「僕の連れに何の用?」
ぱっとアリスが顔を横に向ける。思った通りノアが両手に飲み物を抱えてそこにいた。
笑みを浮かべてはいるものの、どこか冷ややかな顔だ。
「お前っ! お前の連れか!! 道理で品のない女だと思ったんだ!!」
(その品のない女にちょっかいをかけようとしていたのはどうしてなのよ…、ってあれ?知り合い?)
アリスの心の声に答えるようにノアはこくりと頷いた。それから飲み物をアリスに手渡して背に隠すようにして男と向き合う。
「その女オレに手を上げたんだぞ! お前の連れならお前が責任をとってオレに謝罪しろ!」
「元はと言えば君が彼女に何かしたんじゃない? カーター殿」
「はっ、みなしごの分際でオレを疑うのか? お前のような下賤な出で立ちの者は本当に性根が腐っているな」
ぴくりとアリスの眉がひきつる。
何という言い草だろうか。こんなに品性のない人間をアリスは初めて見た。いけすかない王子の取り巻きですらもう少しマシだった。
醜い言葉で次から次へとノアを罵っているが別にノアに気を荒立てた様子はない。これくらい言われ慣れているのかもしれないが。
「お前、学校をサボって何をしているかと思ったら女といたのか。本当に汚い奴だ! そうやって普段から教授のご機嫌でも取ってるんだろ? 学校に通うより娼館で働いたらどうだ?」
ぷるぷると怒りで膝に置いた手が震える。話を聞いている限りノアと同じ平民舎の生徒のようだが、どちらが下品なんだと今すぐ平手打ちしてやりたい気分だった。
「お前がお前ならその女もその女だな。みすぼらしい赤毛の女。灰を被ったようなみすぼらしいネズミのような見た目をし…でっ!?!?」
スパンッという小気味良い音と共に不細工な悲鳴が聞こえた。
華麗な手さばきで男の頬を打った手でノアはその顔を鷲掴みにする。それからアリスには聞こえないように小さな声で男のそばでこう囁く。
「なぁ、カーター。どうして僕がいつもお前の行動に目をつむってやっていると思う? コバエだと思って放置していた僕の責任かもしれないが…」
ぐっと爪が頬に食い込む。男は悲鳴を上げそうになるのをこらえていた。
「あまりうるさいと潰すぞ?」
「ひっ!」
ノアが手を放すと同時に男はどさりと地面に崩れ落ちる。
「このっ! ジャック様に何をする!」
腰の抜けた主人を救うべく手下の二人組が男の後ろからこぶしを振りかぶって飛び出してきた。
そこに向けて思いっきりアリスは手に持っていたカップの中身をぶちまけた。
バシャリと盛大に二人に冷たい紅茶がふりかかる。二人は勢いに驚いて主人の横に倒れこんだ。
「え?」
続けてアリスは立ち上がってノアの手からもカップを奪い取るとそのまま地面に這いつくばったままの男にも中身をお見舞いした。
それからぽいっとカップを放り投げると腕を組んで彼らを見下ろす。
「あのー…アリス?」
「ノアは少し黙っててください」
「はい」
アリスは怒り心頭だった。ただでさえ調子が悪い時に意味の分からない男たちに絡まれて、挙句の果てに昨日から自分を案内してくれている親切なノアにひどい暴言ばかりあびせて。
ただでさえエレオノーラに似ているノアを侮辱するようなことを言われて腹が立っているのに身の程知らずが手まで上げようとしたことに堪忍袋の緒が切れた。
「学校の顔を汚すのも大概になさったらどうですか? 下品下品と他人に言うくらいでしたらまずは鏡でも見てご自分を磨かれたらどうです。まぁ、磨いたところで光る中身は持ち合わせていないでしょうけど」
じわじわと男の顔に屈辱が滲んでいくのが見える。今までこんなことをして気分が良かったことなんてないのに今だけは胸がすくような思いがした。
ふん、と鼻で笑ってくるりと踵を返した。呆気に取られているノアの手を取って荷物を持つとさっさとその場から立ち去る。いつまでもこんなところにいては気分が悪いだけだ。
残された男、ジャック・カーターは怒りに震えていた。
いけ好かない男の、いけ好かない女。自分に手下の前でこんな惨めな思いをさせて絶対に許すわけにはいかない。
「覚えておけよ…!」
どんっと地面にこぶしが打ち付けられる。かたい地面に当たってジャックの手からは血がにじんでいた。しかしそれすらも奴らへの怒りを煽るいい材料になる。
その目はぎらぎらと不穏な色を孕んでいた。
*
「それでは。ここで大丈夫です」
アリスとノアは宿の前まで戻ってきていた。アリスの体調は悪くなる一方で、先ほどの不快な出来事のせいか余計に精神をすり減らされてしまった。
ノアは心配そうな顔をしている。
雰囲気が似ているとは言えエレオノーラとは全くの別人なのに不思議とアリスはノアがいると心が安らぐような気がする。
特にこういう体調の良くないときは殊更誰かの存在が恋しくなるものだ。
「本当に大丈夫? 今日くらい僕もこの宿に泊まろうか?」
「いえ、大丈夫です。ノアは寮があるでしょう? そちらに帰ってください」
「でも…」
「私は大丈夫ですから」
荷物は宿の主人に預けたしあとは自分が部屋まで戻ればいい。アリスは「それでは」とノアに頭を下げようとして、それから。
ぐにゃりと視界が歪んだ。
(あれ……?)
水の中に沈んでしまう時のようにどんどんと意識が遠のく。
霞んでゆく視界の中でノアの顔が目に映る。
(やっぱり……似てないわね。だって、エレオノーラ様はそんな必死な顔しないもの―――)