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戦闘準備(4)

 妖精族に関する書物は実のところあまり多くはない。彼女らの住まう《黒の森》の最深部に到達した者がほとんどいないからだ。

 唯一、最深部に到達したと公式記録に残されているのは帝国建立の英雄アントニウスのみ。

 その英雄殿も妖精達の里についての記録をまったく残しておらず、その様子は謎に包まれている。帝国建立の際、妖精族の長、ティルクルを招いたとの記述があることからその関係性は浅くはないと思うが……。

 謎が多い種族と言えば必ず話題に出るのが同地域に住むダークエルフ達だ。この種族についても多くを知る者はいない。同種であるエルフ達ですらまともな親交は無いようで生活様式や社会構造すら知られていないのだ。

 彼らの多くが帝国の隠密部隊に所属しているとの噂もあるが、あくまで憶測の域を出ない。

 話を妖精族に戻す。彼女らはおおむね他種族に対して好意的に接してくる。大災厄の時代、行き倒れた子供たちが保護を受けていたという伝承が数多く残されたのもこの時代だ。

 余談だが、名作『竜の谷の冒険譚』もこの出来事をモチーフにしている。

 そんな彼女らだが……気まぐれに力を授けるという名目で特訓に誘ってくることがある。

 結論から言おう、絶対にやめておいた方がいい。

 永い時を生きるこの種族の持つ力は多くの他種族よりも圧倒的に強い。彼女らにとっては軽く流しているつもりでも、こっちにとってはトロルの渾身の一撃を受けているような衝撃が襲ってくる。あんな馬鹿力で打たれたらどんな我慢強い奴だって悲鳴を上げるさ。おまけに! 彼女らの魔力は膨大でいっぱしの治癒師が失神するほどの治癒魔法を一日中かけ続けることさえ可能だ。

 つまり、彼女らとの特訓を行うということは圧倒的な暴力で一日中ぶちのめされ続けるということになる。

 皮膚が裂けても、肉が切れても、骨が折れても、苦悶の表情を浮かべても、悲痛な叫びをあげても、絶望しても。彼女らが与えると心に決めた技能を習得するまで絶対に終わらない。

 痛みを与えることが技能習得の最短経路だとか何とか言ってたがこっちとしてはたまったもんじゃないよ。

 僕はもう二度とやらない。

 絶対に、だ。

 

『帝国の種族(通常版)』 R・ローズ著

 

 

 朦朧とした意識の端に白い光が浮かぶ。

 これで、何度目だ?

 百回を超したくらいから数えるのをやめてしまった。クインの魔法で傷はあっという間に癒えるものの心理的・肉体的な疲労が重しみたいに積み重なっていく。

「さて、いきます」

 いつの間にか治療が終わっていたようだ。五十回目を超えたくらいから治癒の光に包まれる一時だけが心の休まる時間となっていた。

 最も、クインの腕が良すぎるためか一瞬でその時間も過ぎ去ってしまう。

 憩いの時間を無くした俺はどうにか木刀をクインへ向けた。

 もう力が入らない。

 だらりと下がった剣先がゆらゆらと揺れている。

 意識だけは相手に集中。

 上からか、下からか。

 力が抜けた体の中で、精神だけが研ぎ澄まされていく。

 無心。

 熱に浮かされたような浮遊感。

 周囲の音がぷっつりと切れた。

 自分の呼吸音だけが耳の中で反響する。

「え?」

 クインが体を右に流すのが見えた。まるで演武でもしているかのようにゆったりとした緩慢な動き。

 なんだ、これは。

 混乱。

 集中が乱れる。

 周囲の音が聞こえた瞬間、クインの姿は消えていた。

 右!

 咄嗟に木刀を右へ差し向けると鈍い音が木霊する。

 鈍い手の痺れ。

「あら? あらあらあら」

 初めに聞こえたのは気の抜けた声。次いで驚きと喜びが混じったようなクインの表情が浮かぶ。その一撃をぎりぎりで受け止めた俺の剣は下に叩き落されている。

 初めて、クインの一撃を止められた。止められたんだ。

 安堵からか、疲れからか、グラリと視界が傾く。

 足から崩れ落ちそうになった時、暖かな感覚が左肩を包んだ。首を回すと、俺の肩を支えるクインの姿があった。

「もう日も高くなりました。少々休憩としましょうか」

 

 せりだした木のコブに腰かけると、体の底からどっと疲れがわき出してきた。クインは木の枝を幾重にも螺旋にして作ったようなコップを二つ持ち、俺の隣に腰かける(腰かけるといっても宙に、だが)。

「さあどうぞ、治癒魔法じゃ傷は治せても疲労はとれませんから」

 渡されたコップにはなみなみと黄色い液体が満たされている。鼻を近づけると貴族に出す蜂蜜酒のように上品な香りがした。口中からにわかに溢れてきた唾を飲み込む。

 そういや、朝から何も食べてなかった。腹の中がストンと広がったような空腹感に襲われる。

「じゃあ、いただきます」

 コップを傾け口に液体を流し込む。途端に柑橘類の甘い香りが口、鼻、胸の奥にまで暴風雨のように広がった。次いで楽園で掬い取られた蜂蜜のような旨味が口中に広がり、思考が止まる。味わいを楽しもうにも早く飲み込もうとする本能に逆らえない。一気に飲み込むと、甘さの残り香が喉の奥をくすぐりながら腹の中に落ちていく。

 それからすぐ、口と腹から発せられる渇望に従い俺はコップの中身を飲み干していった。

「お口に合いましたか?」

「こんなに、旨いのは、初めてだ! いったいこれは……」

 すっかり中身を飲み干した俺がクインへ目を移すと、彼女の後ろでなにかが動くのがわかった。首を伸ばすとクインの半分ほどしかない何者かがひょこひょこ歩いている。

「え?」

 あれは……木だ。比喩だとかじゃなく小さな木が五本に分かれた根っこを足がわりにして動いている。

 そいつは俺とクインの近くまで来ると葉が生い茂る枝をこっちに伸ばしてきた。クインが俺のコップを取り伸ばされた枝に載せると歩く木はくるりと回って離れていった。

「あの、動いてるそれは、どういう……」

「え? そりゃ木ですよ?」

 クインは当然のように言い放った後、俺の顔を見て合点したとばかりに膝を打った。

「ああ! そうでした。この子は<黒の森>出身なんです。こっちの植物は出歩いたりしない子たちでしたね」

 <黒の森>じゃこういったことは普通なのか?

 夜な夜なああいう若木? が集まったり?

 歩く木々が大勢集まり輪になって踊る絵面を思い浮かべようとしたがうまく想像できなかった。

「あなたは帝都の出身で?」

「いえ、俺は……テベス・ベイです」

 正直自分の出身を話すときは胸の裏側を爪で引っかかれるように嫌な感触が残る。顔をしかめられるかと思ってクインの様子をうかがっていたが、彼女は小さく頷いただけだった。

「ああ、成程。あの辺りはまだ木々が残っていますからね。帝都ではすっかり見なくなりました。致し方ないことですが」

 緑色の大きな瞳に底知れない影が一瞬よぎる。

 言われてみればそうだ。帝都に来てからというもの大木どころか草一本見たことがない。今まで気にしなかったが考えてみるとおかしいような……。

「時に、さっきの立ち合いでは何か掴めましたか?」

 クインの問いかけに、さっきまで頭に渦巻いていた疑問は煙のように消えていった。

 このことは、後で考えればいいか。

 それよりもまず、確かめたいことがある。

「ああ、クイ……いや、師匠の動きが一瞬だけ見えました。不思議な、感覚で。ところで、その、聞きたいことがあります。その、この訓練は、何を会得するのが目的なんでしょう」

 息つく暇もなくぶちのめされ続けるこの地獄の特訓の目的は聞いておきたい。口惜しいが実力差がありすぎて剣技の修練になっている気がしないんだ。

 歩く木が俺のコップを苔の上に置くと、すぐ上で枝をしならせ始めた。

「ふーむ。そうですね、いいですか? ケイタ。贈り物というのは受け取るその時まで内緒にされた方が喜びも大きくなるもの。その時まで内密にするのが作法といってもいい……ま、そういうことです」

 そう言うと小さな師匠は誇らしげに胸を張った。

 一体そういうことがどういうことなのかは良く分からなかったが、習得してのお楽しみということらしい。歩く木が気になって目を移すと奴がしならせた枝から黄色い蜜のような液体がポタポタとコップに注がれていく。

 仄かに甘い香りが漂ってきた。

 もしかしてさっき俺が飲んだのはこいつの絞り汁なのか?

「さて! 続きと行きましょう。もうおなかも膨れたでしょうし」

「いや、まだ何も食べて……」

 言いかけて、すでに空腹感がなくなっていることに気づいた。空腹感どころか、テーブルいっぱいの料理を平らげた後のような満腹感がある。あの絞り汁はえらく精がつくらしい。

「師匠、あと一つだけ。どうして、俺に特訓を?」

 このことはずっと気になっていた。俺とクインは一度顔合わせしただけだ。魔導書を書いてもらっているアニモならまだわかるが、接点が殆どない俺に稽古をつける理由が思い当たらない。

「それは……」

 クインは何かを言いかけて、言葉を止める。唇へ人差し指を当て、いたずらっぽく俺に微笑みかけた。

「妖精の気まぐれ、ということにしておきましょう。さ、始めますよ」

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