戦闘準備(3)
ミミ
上体を跳ね上げると酷い動悸が襲ってきた。
眠りの余韻など存在しないかのように。
荒い呼吸。
私の意思を無視して暴れまわる心臓が悲鳴を上げる。
木枠から漏れる光を見る限り、どうにか朝までは目を覚まさないですんだらしい。
胸に手を当て、楽しかった時の記憶を心の中に浮かべる。幼いころから続けてきた心を守る癖。さっきまで頭を覆っていたであろう暗い夢を思い出さなくてすむように。
鈍く疼く火傷の跡には気づかないふりをして。
中には怖いという人もいたけれど、私にとってのおばあちゃんはよく笑う優しい人だった。私にとって、楽しい記憶とは彼女との日々。
二人でパンを作って、小さな鍋に入れた夕食を分け合って、些細なことで喧嘩して、またすぐ仲直りして、寝付けない私のために一緒に寝てくれて、嫌な夢を見て涙を流して目覚めた私を抱きしめてくれた。
動悸が少しずつ収まり、視界が定まってくる。
ようやく一息ついて見えたのはすっかり冷たくなった隣の寝床。
もう、大切な人はいないという現実を否応なしに突き付けてくる。
ふらつきながら立ち上がって台所へ。昨日、ウェヌス水道から汲んでおいた水で顔を洗うと少しだけ気分がましになったような気がした。
木桶に張られた水面が揺れ、差し込まれた光が瞬いた。その輝きは私の友人――友人だった彼女の髪色を思い起こさせる。
ひょんなことから知り合ったあの三人と過ごした時間は決して長くはなかった。けれど、その存在は私の心の奥で深く根を張っている。
私に否定されたあの時の悲しそうな表情が浮かぶたびに後悔がぐるぐると頭の中を走りまわりズキズキと胸が軋む。
ヒカリちゃんがやろうとしたことはどうしても受け入れられるものじゃなかった。
でも、もし。
何か、別の言い方をしたら。
彼女が身の上話をした時、彼女がしようとすることに気づいていたら。
何か変わっただろうか。
後悔に身を焦がしても、小川に流してしまった宝石のようにあの時の時間は返ってきてはくれない。
あれから何度も、仲間の二人が訪ねてきてくれた。私を気にかけてくれたんだろう。
そこで、ヒカリちゃんが塞ぎこんでいることを聞いた。毎日部屋を訪ねても、あまり外へ出てこないと。
あの子は私のことをどんな風に思ってるんだろうか、私と会ったとしたら何を思うんだろうか?
悲しみ? それとも怒り? なんて声をかけたらいいかもわからない。
そう、分からない。
私は、迷子なんだ。
粉雪が舞うあの冬の日、命からがら橋まで逃げた時と何も変わらない。
今もこうして一人、震えるだけ。
もうあの時のように私に道標を与えてくれる人は訪れないだろう。
何かに助けを求めるように私は窓際に来ていた。目の前には陽光を浴びたガザニアの花。
そっと、花弁を撫でてもガザニアはその身をゆらりと遊ばせるだけ。
私は、この物言わぬ同居人をただただ見つめていることしかできなかった。
◆◇◆◇
「そりゃあ……穏やかじゃないな」
目の前で宙に腰かけた妖精は試すような視線をこちらに向けている。「このままじゃ死ぬ」とはずいぶんと刺激的なお言葉だ。
「ケイタ、恐らくクイン殿は、その、比喩的な表現で……」
「いいえ、そのまんまの意味です」
言葉を失ったアニモは何とも言えないような表情で俺とクインへ交互に視線を送る。俺たちが黙り込んだ後、妖精はゆっくりと口を開いた。
「とはいえ、技量が無いわけでは無し。今日一日貰えれば戦えるように特訓してあげましょう」
「そりゃ本当に! 願ってもないことだ」
特訓! 噂に名高き妖精族から教えを得られるとはまたとない幸運だ。俺がクインへ答えを返すと俺の腕が引っ張られた。その先では恐怖に満ちた表情のアニモが飛沫を飛ばす犬のように首を振っている。
「まてまてまて! 知らんのか!? 妖精族の特訓は――」
「はいはい~。ではではご指導いたしましょう。ケイタさんどうぞこちらへ」
さっきアニモが何か言いかけたが、クインの声に遮られて聞こえなかった。
にっこりと笑みを浮かべるクインとは対照的にアニモは……なんて顔だ、誰かの葬式か?
「それじゃあ今日はこっちで世話になるよ。ああ、アニモ。先に帰ってまたヒカリの様子を見てくれないか?」
ヒカリには毎日何度も声をかけてはいるのだが、気のない返事が返ってくるだけだった。相変わらず部屋の外にはあまり出てこないし、信じがたいことに食欲すら無いようだ。市場で見つけた珍しい果実を持って行ったが「いらない」と突き返された。どうも、部屋の中で何かをしてるみたいなんだが、中に入れてくれない。
「ケイタ、ヒカリの様子なら既に今朝見て……いや、分かった。それから、その、なんだ」
アニモは俺に背を向け僅かに首を後ろへ傾けた。
「幸運を祈る」
「え?」
足早に去っていく魔導士の尻尾はすぐ木陰に隠れて見えなくなっていった。
幸運を祈る? まるで戦争でも始まるみたいだ。
アニモの言葉の意味するところを考えようとしたとき、上下から樹木が煙のように湧き出て俺の十歩前に壁のように立ちはだかった。
驚いて首を回すと四方に樹木の壁が形作られている。
壁同士の距離は三十歩ほど。即席の闘技場みたいだ。
その中心でクインが俺を手招きしていた。
「さてさて、ではさっそく始めましょうか。まずは刀をこちらへ」
樹木に覆われた天井から蔦で出来た受け皿が降りてくる。ここに刀を載せろってことか。
俺が刀を預けると入れ替わるようにまっすぐに伸びた木の枝が落ちてきた。長さは丁度さっき預けた刀と同じくらい。握ってみると樫のように硬かった。
クインの方も俺と同じように真っすぐに伸びた木の枝を三本指で支えるように握っていた。大きさは俺のものより二回りは小さいが、彼女の身長と同じくらいの長さがある。
妖精の特訓と聞いて勝手に魔法か何かを使うもんだと勝手に思ってたが、これはまるで模擬剣を握っているようだ。
「あー、ええと、その、特訓っていうのは木の枝を使うのですか? なにか、こう、魔法とか、マナ? とかを使ったりは?」
「マナ? 剣の特訓なのですからそりゃ剣を使いますよ」
クインはふわふわと浮いたまま半身となり、木刀を真っすぐこちらへ向けてきた。握っているというよりは剣が三本指に引っ付いているように見える。
「内容は?」
「当然、実戦形式です。遠慮せず打ち込んでも構いません。できるなら、ですが」
いよいよ、か。
木刀を両手で支え右足を引く。
構えは中段。
まずは様子を見るべきか? 妖精を相手取るのは初めてだ。
クインは宙で緩やかに上下する以外に動きはない。
距離はまだ間合いの外。
一歩詰め寄るか?
その考えが頭によぎった瞬間
クインの姿が消えた。
「えっ? ――グゥッ!」
頭のてっぺんから足の先にまで衝撃が走り抜ける。
視界がガクリと垂れ目から火花が散った。
遅れて痛烈な痛みが頭に広がる。
打たれた、頭上から。
妖精の足が地に降り立ったのが見え、続けて緑髪を垂らしたクインが覗き込んでくる。
「起きられます?」
木刀を支えにしてどうにか体を起こす。それを見ていたクインはにっこりと笑みを浮かべた。
「よしよし、その意気です」
さっきのは、なんだ? 目じゃ全く追えなかった。
魔法? それとも単純な速さ?
鉛でもぶら下げられたみたいに頭が重い。
今度は重心を落とし木刀を強く握った。
まずは初動を見切らねば。
クインの動きに意識をすべて集中させる。
妖精は地に足をつけて木刀を肩に担いでいた。
動く気配はない。
さらに集中。
ひとつ、
ふたつ。
クインの姿が、消えた。
直感、下。
首を回した瞬間、体の芯を揺るがす衝撃が走る。
息が、止まる。
視線の先では俺の鳩尾に木刀を突き立てる三本指。
ふと、意識を手放しそうになった時、淡い光が視界を包んだ。
「おお、大丈夫ですか? すぐに治療できますから心配なさらないでください」
頭と胸が焼けるように熱くなったかと思うと、たちまち痛みが引いていった。
治療が終わるとクインは再び距離を取り、ふわりと宙に浮いた。
「ご心配なさらず。あなた方の生涯は短い。回復や休息のような無駄な時間に浪費なんてさせませんから、安心して特訓に励んでくださいね」
この声は真っすぐで、善意に満ちていて、まるで治癒師が患者にかける言葉のように慈愛に満ちていた。
……これはもしかすると今日一日、あの木刀で休む暇もなくぶちのめされ続けるのか?
脳裏をよぎるのは猛烈な勢いで首を振るアニモの姿。
俺はブルリと背中を震わせ、全身の力を込め木刀を構えた。




