戦闘準備(1)
見知ったドアを開くと薬剤の香りがツンと鼻を通り抜けた。
瓶で一杯の棚を通り抜けると、黒い三角帽子が二つ見える。今日はアラベルだけじゃないらしい。
「おや、客人かな?」
やや高い、老人の声。大きな赤鼻に小さな眼鏡を乗せた爺さんがこちらに視線をくれてきた。
皺に囲まれた三角形の眼を珍しそうにぱちくりさせている。
「ああ、えーと初めまして。俺は最近ここに来た者で……」
「おーおー! 君が噂の刀使いか! この子から話は聞いているよ」
俺の腰にちらりと顔を向け、老人は合点したように頷いた。
「そりゃあ話が早い……ですね。俺はケイタ」
「キルケだ。キルケ・タクロ」
手を差し出され一瞬遅れて握手を交わした。確か……アラベルのお師匠だったか? こういった出会いで初めてまともな握手を交わした気がする。
アラベルへ視線を向けると、彼女は小さなすり鉢で何かを一心不乱に混ぜ合わせていた。
「すごい集中力だろ? まったくこうなると何度話しかけても返事一つ帰ってこん」
小刻みに揺れる三角帽子を前にキルケは目じりを下げた。
「この子の才能は神々から与えられたものだ」
「才能?」
キルケはその皺をますます深くすると嬉々として目を輝かせる。孫を自慢する祖父のようだ。
「情熱だよ。この子の胸の内には情熱という枯れることのない泉が常に湧き出ている。錬金術の研究というのは地道なものでな。新発明という華々しい成果の裏では失敗が山のように重なっている。泥臭く、労が多くて益が少ない仕事だ。この子よりも優れた閃きや知識を持った研究者は幾人もいるが、私は情熱こそが何よりも大きな才能だと思うんだ」
情熱、か。老人の声に初対面での出来事が思い起こされる。今目の前で真剣な表情で研究に取り組む彼女とあの狂気じみた迫力を見せた彼女はコインの表裏なのだろうか。
そんなことを考えていると、アラベルが大きく息をついた。一段落着いたらしい 。
彼女が顔を上げ、眼が合った、途端ビクリと肩を震わせる。
「ヒッ……あっ、いつの間に」
「うん? ケイタ君は少し前から来ておったぞ」
「そ、そうだったんですか」
キルケが苦笑しつつ助け舟を出してくれた。 毎度来るたびに叫び声をあげられそうになるのはどうにかならないだろうか。アラベルは体と顔を俺から反らしてチラチラと視線だけを当ててくる。
渡すものだけ渡して、退散した方がいいだろう。
「今日は礼を渡しに来ただけだ。すぐ出ていくよ」
「あっ! いえ! その出て行って欲しいってわけじゃ、え? 礼?」
首を傾けた彼女にフリルの付いた小さな赤いリボンを手渡す。この前の買い出しで見つけた品だ。牛頭の商人が言うには帝都で流行っているスタイル……だそうだ。
「薬の件だよ。あの薬のお陰でダリアは最後の望みを叶えられた」
横を伺うとキルケは小さく頷いていた。アラベルから話は聞いているようだ。
リボンを受け取った弟子は一呼吸の間きょとんとした後、目を白黒させた。
「い、いや。お礼なんてもらうほどのことは……」
「してくれたよ。あー、あれかな? もし、いやだったら」
俺が言いかけたところでアラベルは帽子が取れそうなくらい首を大きく横に振った。嫌というわけじゃないらしい。
助けを求めるような弟子からの視線を受けたキルケは胸まで伸びた顎髭をゆったりと撫でた。
「何を迷うことがある」
「でも、錬金術は真実を探求し人々のために……」
「善意を受け取るのと真実の探求は相反する事ではないよ」
そう言い終わるとキルケは鼻歌を歌いながら紫の幹と紅色の葉を持つ植物が入った瓶を布で磨き始めた。判断はアラベルに任せるらしい。
紫の瞳がリボンと俺の顔を何回か彷徨ってから俺の顔で止まった。
「お、お受けします。すいません。こういったことは初めてで」
「あ、ああ」
まさか薬の礼を渡すのに一悶着あるとは思わなかったが、どうにか受け取ってもらうことが出来た。俺が踵を返す前にアラベルが浮かれたような声を出す。
「それじゃあ着けてみてもいいですか?」
俺が頷く前に白い指がリボンを大きく広げていた。
足を止めて長い頭髪へ視線をうつす。
あの紅色は深紫の髪によく似合うだろう。
と、思っていると彼女は三角形の瓶を持ち注ぎ口に深紅のリボンを巻き付け始めた。
丹念に角度を調整した後、満足げに頷く。
「うん! 似合ってる」
「……アラベルや、その、なんというか、その贈り物はな」
目を見開いたキルケが慌てて止めようとするのを手で制した。
こう来るとは想像していなかったが、こっちの方が彼女らしい。
「ああ、似合ってる。俺も丁度合うんじゃないかって思ったんだ」
そう言って笑うと、アラベルもつられ控えめに体を揺らす。
深紅の映える透明な瓶に三人の異なる表情が混ぜ合わされるように反射していた。




