きっと、明日降る雨は(7)
五日後、俺とアニモは街の東を流れる川の橋で空を見上げていた。街の外れ近いこの辺りは道も広々として中心部のように通行人と肩がぶつかることもなかった。背の低い同じような間取りの家が並ぶ街並みの上では相変わらず分厚い鉛色の雲が垂れ込めている。隣の魔術師はこのところかじりつくように本を読んでいる。あの妖精から受け取った本の魔法を『頭に入れる』のに時間がかかる……らしい。せせらぎの音に交じって何かが飛び込む水音。魚でも跳ねたのだろうか。
「おお! アニキ!」
丸められた大量の羊皮紙を抱えたゴトルが大手を振ってこっちまで駆けこんできた。顔の半分を埋めていた藪のような口髭は綺麗に刈り取られ青の残る地肌が露になっている。くたびれた緑のキャスケットを斜めにかぶり、服はボタン付きの赤シャツと、なかなか様になっている。
「アニモ先生! へへっこの度はどうも」
「……変われば変わるものだ。トカゲだの何だのと言われたのが遠い昔のようだな」
「確か俺は猿の親類だったな」
「へえ! アニキたちにそんな事言うなんて不埒な輩もいたもんです」
アニモが呆れの混じったため息を吐き出すと同時に元気のいい足音が三つ近づいてきた。あの時の少年三人だ。
皆、上等な白シャツに青のズボンを身に着けている。
「にいちゃん! 見に来てくれたの?」
ニコラスの青い瞳がきらりと輝いた。笑うたびに汚れの落とされたブラウンの髪がふわふわと揺れる。
「もうすぐ始まるからさ、待っといてくれよ」
クワラが腰に手を当てて胸を張った。口をよく見ると抜けている前歯に小さな白が見える。新しい歯が生え始めたようだ。
腕を引かれ、目を向けるとキーネがこっちを見つめていた。目の付近まで伸びていた前髪はバッサリと切られ、細い目が笑っている。
「ところで……金なんだが、もう少し待ってくれねぇかい? 今ようやく――」
「ゴトル」
俺とアニモは同時に手で話を遮った。
恐らく言おうとしていることは同じだろう。
「こっちはいい。まずはよく食べて、それから……盗んだ相手のところへ金を返してこい。さもないとこの魔術師が頭から噛みつくぞ」
「……我輩はそのように非文明的なことはしない」
五月蝿い蝿でも追い払うように尻尾が二度地面を叩いた。不機嫌そうな音とは反対にアニモの表情は穏やかだ。
「ああ、神々よ」
ゴトルは両手をしっちゃかめっちゃかにくねらせた後、両手の指を胸の前で組んだ。
多分だが、祈りを捧げていたのだろう。
「あんた方は俺たちの救世主だな……裏路地の薬中が喚いてる偽もんじゃなく本物の、だ。しかし、本当にいいのか? この羊皮紙だって結構な額だったし」
「チルカが祈る姿を見られたんだぜ? 安いもんだ」
「今のが……チルカ族の祈りの方法か? 普段からあのようなやり方を? 定期的に祈りを捧げるのか? どの神に祈るんだ?」
ぐいと緑の頭が前に出た。見慣れない個性的な作法はこいつの知的好奇心をいたく刺激したらしい。
「あー……いや、先生には悪いんだけどよ、俺が祈ったのは生涯二度目だ。前回は博打の大勝負でさ」
「親分親分! もうお客が来たよ!」
ニコラスが腕を引くとゴトルは大慌てで来た道を引き返していった。向こうでは残りの二人が準備を始めている。
餌を取り損ねたカエルみたいな目をしているアニモの肩を二度叩いて、俺もあいつらの商いに目を向けた。気づけば二十人近い子供が集まっていた。同じくらいの大人――恐らく親だろう、も話に花を咲かせている。
「さあさあ! お待たせしました!」
ゴトルが声を張り上げると周囲に集まっていた小さな瞳がきらりと光りを帯びた。脇に構えていたニコラスたちが小さな木製の筒を両手に持ち胸の前に構えた。
「これより血沸き肉躍る冒険譚が始まります! ただ、その前に……」
ニコラスたちが前へ出ると幾人かの子供たちが一斉に後ろを向いた。苦笑いした親が筒に銅貨を入れていく。
何人かは小遣いを持たされているようで前列にいる子は自分で木箱へ手を伸ばしていた。
「ああ旦那様! 今日もお髭がばっちり決まっております! 奥方様のお召し物も素晴らしい! あっし……私は目の前に天使が降り立ったのかと思いました」
ゴトルの口上が何か琴線に触れたのか子供たちが一斉に笑い出す。その間に金の回収を終えた二人は筒を置き丸められた羊皮紙を子供たちに向け広げ始めた。
すべて広げると横は子供の身長、縦はその半分くらいの大きさ。
羊皮紙の中では銀髪の下で赤い目を光らせる少女と杖をふるうリザードマンの姿、そしておどろおどろしい化け物が描かれている。
「さてさて、それじゃあ昨日の続きを。迷宮へと足を踏み入れた一行の前に現れたのはこの世のものとは思えないほど恐ろしい怪物たちだった! 恐ろしいうねり声をあげ襲い掛かる……」
「いやはや、こんな方法があったとはな。これは……何と呼ぶべきかな? 絵を使った読み聞かせ。いや芝居か?」
あの時、俺がゴトルに提案したのは、奴の話術とキーネの絵を合わせた見世物だった。基本はゴトルの話術で話を進め、印象的な場面で絵を見せていく。字が読めない子供でも絵と声なら心を動かすんじゃないかと思っていた。
まさかこんなに盛況になるとは予想外だったが。
「話の題材にも丁度いいのがあったしな。あの迷宮なら冒険譚には事欠かない」
これで、あいつらもあの暮らしからおさらばできるだろう。小さな達成感と共に、首を上向ける。鈍色に覆われたあの日と変わらない空。
子供のころの記憶がぶりかえす。
良いものも、悪いものも。
良い記憶は。
カルロ。
俺はあいつのが話してくれるおとぎ話を、一番楽しみにしてたっけか。
「今日はここまで」と言うあいつにすがり付いて続きをねだり、随分困らせた。
そして、悪い記憶もまたあいつのことだ。
俺のなかに芽生えた小さな感覚が音もなく萎んでいくのが分かった。
「ふふっ、こんな調子で裏路地を歩けば帝都から犯罪者が居なくなるかもしれんな」
それがアニモの冗談だってことは分かってた。
本気でそんなこと考えてないって。
軽口に乗るべきだってことも。
「変わらないよ、何も」
でも、その時の俺は癇癪を起こした子供みたいにそれを否定したくなったんだ。
視線を下げる。
緩やかに流れる水面は空の色をそのまま写しているようだった。
「そういえば、まだだったな。昔話。続きをしようか」
そよ風が一陣。
無数の波紋が水面にささくれを刻み付けていく。
「カルロが街を発ったのは夕方だった。忘れもしない。ひどい嵐だったからな。しばし、あいつともお別れかと思ってたんだが……再会は思ってたより早く訪れた。最悪の形で」
また、甦る。光景。
暗く没しつつある見慣れた街並み。
小汚ない神殿。
吐瀉物まみれの地面。
顔を伏せ、互いに牽制しつつ足早に去っていく通行人。
「あいつは次の日の朝に見つかった。テベス・ベイのど真ん中。ゴミと吐瀉物にまみれた地面の上、両足の膝から下がズタズタに裂かれ、頭は何かでカチ割られていた。カルロが見つけた『秘密』ってのは想像以上のものだったらしい。殺されたんだよ。それをバラされたら困るやつらから」
調査も、裁判も無くあいつは"事故"ってことになった。カルロの死体から目を背けて衛兵が、そう喚いていた。
「あの時、俺は学んだよ。世の中の仕組みって奴は何も、変わらないんだって」
「ケイタ、それは……?」
アニモは俺の手の中にある小さなひし形の石に顔を近づける。
「これはあいつの形見、だな。あの路上で見つけたんだ。握られた手の中にこいつがあったよ」
「まさか……」
「いや、こいつはカルロが街に来た時から持ってた首飾りだ。あいつが探し当てた証拠じゃない」
ゴトルたちに目を移す。詰めかけた子供たちはすっかり夢中になっているようで、身を乗り出すようにして羊皮紙に描かれた冒険劇を見つめている。物語も佳境に入ったようだ。
「アニモ、何も変わらない。ゴトルやキーネは偶然、金になる技量を持っていた。だが、全員がそうじゃない。食うに食えずどうしようもない奴なんていくらでもいる。すぐ、近くにな。そいつら全員をどうこうするなんて出来やしない。一人や二人救えたとしても、全体は変わらない。変わらないんだ」
カルロが死んでから、またテベス・ベイは元のゴミ溜めへと戻っていった。
変わらない、変えられなかった。もし、今あの場所にいたら俺は……。
突如、割れんばかりの拍手がまき起こった。物語が一段落したらしい。続きをとせがむ子供たちをゴトルが必死になだめている。
「さて、貴殿が話してくれたのだ。我輩もひとつ昔話をしようか」
アニモは橋のへりから身を乗り出した。くすんでいた川面に一滴の色が加わる。何故かあいつの顔は微笑んでいるようだった。
「師に拾われたときの事だ。あの時……子供だった我輩は死にかけで森の外れに倒れていたらしい。藁葺きの寝具で目覚めたときに、そう聞かされた。我が師はそれから掌に呼び出した小さな炎で蝋燭を灯していた。それでな、起きてすぐ我輩が何と言ったと思う? 見ず知らずのリザードマンの子を救った人間の恩人に対してだ」
くつくつと笑いだしたアニモは自嘲したように息を吐き出した。だが、その表情に曇りは一点も見当たらない。
「魔法を教えて欲しい、全てを変えてしまえるくらいの、力が欲しい。我輩はそう言ったのだ。まずは恩人に礼をするなりあるだろうに……子供の頃の話とはいえ我ながら呆れてしまう。すると、我が師はにっこりと、胸まである白髭を揺らして笑われてな。こう言ったんだ」
「『どんなに強大な魔法も全てを変えてしまうような力もいきなり生まれるわけではない。全ては小さな蝋燭を灯すところから始まる』そして、我輩に細い蝋燭と分厚い本を手渡してきた。あの時、藁葺きの上、魔術師としての……いや、我輩の、人生が始まったんだ」
ポツリと水滴が橋板を叩く。水面に吸い込まれる無数の滴が色のない面を揺るがしていく。
「そして、我輩の目をじっと、あの水晶のように澄んだ瞳で見据えて言われた。『真に偉大な行いとは強大な力を持つことでも、それを行使する事でもない。内に眠る真の心に従った行動こそが偉大なことなのだ』と。我輩の心に刻まれた言葉だ」
アニモの、その師の言葉が、胸の内にふわりと広がっていく。
頭にこびり付いて離れない遠い記憶の幻影が僅かに薄らいだような気がした。
ふと、ゴトルたちへ目を向けると皆、あの場からは退散したようで近くの家の軒下で雨を凌いでいた。
だが、男の子が一人遅れてしまったのか隙間の埋まった軒を前に右往左往している。
「我々が行ったことは、決して世界そのものを変えてしまうほど大それたことではないし、かつての英雄譚のように誰しもがうらやむ偉業でもない。だが」
ゴトルが手を伸ばし、男の子を持ち上げると肩車した。子供たちはみな、笑顔で何かを言い合いながら二人を列に加える。別の軒に入った親もそんな光景を穏やかに見守っているようだった。
「ほんの少し、そう。少しだけ明るくなったんじゃないか? 蝋燭一本分くらいはな」
小さく笑った魔術師はまっすぐ軒下の光景を見つめている。
全身ずぶ濡れになった俺はどうしてだか、この雨が長く続くようひし形の石へ祈りを込めていた




