きっと、明日降る雨は(6)
アニモが手を上げると俺たちの周りを覆っていた紫炎がかき消えていく。視界が戻るなり白壁の一番上に陣取っていたチルカが吹き矢を咥えた。
「まてまて」
笑顔を浮かべ手を振りながら壁に近づく。
五歩の距離まで来たところで足を止めた。
「一時休戦としないか? いやなに、大陸の平和について語り合おうかと思ったんだが」
返答はない。
かなり警戒しているようだ。ぼさぼさ髪の隙間から覗くぎょろりとした目玉がせわしなく動いている。
ぶつぶつとアニモが何かを呟くのが聞こえた。
呪文の詠唱か。
「おいおいどうした? さっきまで気を違えた犬みたいに吠えてたろ?」
アニモから気をそらすよう大声を出すが、チルカの方は気にするそぶりも見せない。
迷子になったように動いていた奴の目玉がアニモを見据えピタリと止まった。
射かける気か?
俺は刀に右手を置いた。
「おい! 何してやがる!」
地面に大きな魔法陣が浮かぶやいなやダミ声が降ってきた。チルカは歯を剥き出しにしてこちらをねめつけていた。ニコラスと呼ばれた子供は顔面蒼白だ。
魔術師は怒号を無視し詠唱を続ける。
やがて、青白い魔法陣の光が眩しいくらいに強くなった。
「このトカゲ野郎! ナメた――」
魔法陣の光が蝋燭を吹き消したように消える。
緑色の手が高々と掲げられ。
パチン。
と指が鳴らされた。
決して強く鳴らした訳じゃない。だが、トロルの足音並みに大きなその音はヤマビコのように反響しながら二呼吸の間ずっと頭の中で響き続けていた。
直後。
不意にパッと視界が赤々とした光に照らされた。白い壁も、子供も、チルカも夕日を浴びたように赤く濡れている。
照らされた二人の顔に表情はなかった。目の焦点が合っていない。
まるでドラゴンの群れでも見たかのようだ。
その視線の先を追って俺も振り向き……口をあんぐりとあけた。
背後の壁は大惨事になっていた。
火、火、火。
壁全体を包むかのように炎が踊っている。
壁の穴からは時折、間欠泉のように火柱が吹き出し、壁の表面では火の玉が尾を引きながら跳ね回っていた。
アニモは困ったように腕を広げて肩をすくめる。持っている杖の球体からは紫の光が溢れていた。
「いやはや、ここまでとは……少々やり過ぎたかもしれん」
「やりすぎたって……おいおい」
雨中にあっても火は衰えることを知らずますます勢いを増していく。バチバチと音を立てる火の粉が水たまりに落ちていった。
「アニモ、流石にこれはまず――」
「――クワラ! キーネ!」
背中から叫び声と何かが落ちる音。
振り返るとチルカが地面にいた。一気に飛び降りたらしい。悲壮な表情を浮かべ壁に向かって足を引きずりつつ飛び跳ねるように駆け出した。
着地で足を痛めたか?
向かう先は炎の壁。
このままじゃ丸焦げだ。
俺はすぐに駆け出して短い腕を羽交い絞めにした。
「何しやがる!」
「やめろ! 死ぬ気か! ?」
次の瞬間、一際勢いの付いた火柱が壁の穴から噴き出す。
火の向きは真っすぐこっち。
奴を引き倒すように地面へ身を投げた。
すぐ上を赤々とした光が宙を泳ぐように通り過ぎていく。
顔を上げると、すぐ近くにアニモが立っていた。
あいつは腰からロープを取り出すとチルカの両手首に巻き付け縛り上げた。
あの炎を見ても怖くないのか? それとも、術者には当たらないようになっているんだろうか?
強い力で縛ったようで髭に囲まれた口から牛が出産するときのようなうめき声が漏れ出てくる。
「おいおい、流石にこいつはやりすぎじゃないか?」
「ん? ケイタ、貴殿まさか……」
「うおおおおお!」
甲高い叫び声が俺たちの会話を断ち切った。
声の主はニコラス。
地面に放置されていた汚いバケツを拾うと一気に走り出した。
炎と目と鼻の先で止まり中身を一気にぶちまける。
バケツの水が炎に吸い込まれるのと同時に短い叫び声が上がった。
「冷めてぇ! 何すんだ!」
冷たい? どういうことだ?
立ち尽くす俺たちの前で炎が一際大きく揺らめき、
子供二人がひょっこりと顔を出した。地面に転がるチルカが大きく息を呑んだのが分かった。
俺たちの前で奇跡を見せつけている子供は涼しい顔だ。メラメラ燃える火が首を撫でても、火柱が全身を包んでも動じる気配はない。
どうしたもんかとアニモへ顔を向けると、あいつはおもむろに右手を掲げ。
パチン。
と指を鳴らした。
すると、さっきまで音をたてて燃え盛っていた炎が煙のように消えていく。
魔術師は腰に手を当て大きく息を吐き出した。
「さ、遊びは終わりだ。出てきなさい」
俺とアニモは壁に囲まれた広場で雨に打たれていた。
目の前にいるのは手足を縛られたチルカとバツが悪そうに座り込む三人の子供。
「やれやれ、中身を使いこまれる前に取り戻せて何よりだ」
鱗に覆われた手が中身の詰まった袋をジャラジャラと揺らした。幸い金は無事だったようだ。
「で、だ。貴様らは一体どういった関係なんだ? 誘拐か? それとも……」
貴様呼びとは驚きだ。なかなかにお怒りらしい。
「違う! 親分が誘拐なんかするもんか!」
頭一つ高い子供――ニコラスだ、が我慢ならないといった様子で詰め寄ってきた。湯屋にも行けないのか、家畜にも似たすえた臭いが漂ってくる。
「あー、いいかな? 僕らはさ、拾われたんだ、親分に」歯が抜けている子供――クワラ、が口を開いた。
「拾われた? こいつが慈善事業をするようには見えないが」
「三人とも捨てられたんだ。食べるものがないって……キーネはちょっと違うけど」
アニモは居心地悪そうに咳払いすると、ずりずりと尻尾を地面にこすりつけ始めた。キーネは俺たちと初めて会った時から変わらず一言も発していない。俯いて、雨水の流れる石畳の溝を見つめていた。
「僕は行く宛もなくってこの辺をうろついてたんだ。これからどうしようって。そんな時、拾われたんだ。親分……ゴトルに」
あのチルカ――ゴトルは目をつぶったままなにも言葉を発しなかった。裏道沿いにある家の扉が開かれ、鷲鼻の老婆が顔を出す。しばし、こちらを伺っていたが、興味を失ったのかうんざりした顔で家の中へ戻っていった。
「そして、教えてもらったんだ。ここで生き残る方法を……あんたらにやったようなやり方をね」
「子供に盗みを教えるとは! なんたる……!」
アニモが歯を剥き出しにして両手足を縛られた小男を睨み付ける。奥行きのある顎からはギラギラした牙がずらりと並んでいる。
ゴトルは黄色の瞳を受けて体を起こすと大袈裟に鼻を鳴らした。
「ハッ! 脳ミソが鱗で出来てるお前にゃ分からんだろうが、ここで生きていくにはこれが一番"紳士的"な方法だ。誰も殺して無いんだぜ? 良心的な市民だって表彰して貰いたいね」
「法を犯した不届き者が! 恥を知れ!」
いきり立つ高い肩にゆっくりと手を乗せた。険しい表情そのままに振り向いたアニモだったが、俺の顔を見るうちに、やや顔を和らげる。
まずは、話を全部聞きたい。
「良く聞きな。俺たちだって好きでこんなシノギやってんじゃねぇ。だがな、やるしかねえんだ。御国が飯の配給を打ち切ったんだからな! なにか? 俺たちに死ねってか? 座ったまんま死ぬか牢屋にぶちこまれるかってんなら俺はブタ箱を選ぶね」
食料の配給が打ち切られた? 初めて聞く話だ。掃きだめのテベス・ベイだってパンくらいは配ってたはず。
「帝国の支援が……? 帝都で? そんな馬鹿な…………だが、仮にそうであったとしても職を探し」
困惑した様子のアニモが口をもごつかせると、今度はゴトルの方が歯を剥いた。黄色い前歯が憎らしげに揺れている。
「職? 職だって! 俺だってな! 何度もやろうとした! 生まれてこのかた喋りと手先をずっと鍛えてきたんだ。帝都で一旗挙げるためにな。だがどうだ? どこもかしこも話すら聞こうとしない。俺の顔を見るなり門前払いだ。『チルカはサーカスに相応しくない』『盗人のチルカに与える職はない』ってな! だからお望み通り盗人になってやったのさ!」
冷たい雨音の中、ゴトルの荒い息が俺たちの間に残された。しばし、目を瞑っていた魔術師は瞼をカッと見開いた。
「成る程、自身には酌量の余地がある、と。そう言いたいわけか」
「しかし」
固く握られた杖が振られ、ゴトルの目の前でピタリと止まった。子供達から小さな悲鳴が上がる。
「法を犯した事実に変わりはない。償いはしてもらう」
「好きにしな。どうせ三月も牢屋で過ごせば出てこれる」
……こいつを牢屋に送ったところで何も変わらない。出てきても変わらず盗みを繰り返すことになるだけだ。
「キーネ、やめろ」
縛られたままのチルカが小さく呻いた。
俯いたままキーネがアニモとゴトルの間に割って入り大きく手を横に広げていた。
怖いのだろう。口をいっぱいに結んで小刻みに体を震わせている。
小さな姿を捉えた黄色の瞳が迷うように揺れた。
「アニモ、牢屋に叩き込んでも無駄だ。こいつがお嬢様みたいにおしとやかに反省すると思うか?」
「ケイタ、ちょっとこい」
アニモはゴトルたちから離れた場所まで俺の腕を引いた。鋭い視線を縛られたチルカに向けつつ大きなため息をついた。
「あの盗人が本当のことを話している保証はどこにもない……仮に真実を話しているとしてもそれで罪が消えるわけでもなかろう」
「何も牢屋にぶち込むのだけが罪を償う方法じゃない。それに、子供だって奴を慕ってる。見ればわかるだろう」
「あの子たちは孤児院へ連れていくべきだ。そこでなら真っ当な、後ろ指をさされることのない生活を送れる」
頭をかきむしる。どうしても、子供たちがテベス・ベイにいた頃の自分と重なる。
「待て、まだ、何か方法が……」
「まさか、あの子らには盗賊の真似事をして暮らせというのか? 罪を重ね、他人の物を奪いながら生きることが正しい道だと?」
「そんなこと言ってない!」
喉から出た声の荒々しさに自分で驚いてしまった。
目を丸くするアニモに弁解しようとしたが、その前に鱗に覆われた手で制される。
「ケイタ。気持ちはわかる。だが、この子らのためにも為すべきことを為さねばならん」
そう言うとアニモは入り口付近の壁にもたれかかった。
俺が納得するまで待っているつもりのようだ。
頭を巡らせる。
一体、どうするべきだ。
テベス・ベイでの経験上、親代わりとなる人間が皆無の子供が生きていくのはかなり難しい。
この子たちはゴトルを慕ってはいる。
だが、奴は盗人だ。他に収入がない限り足を洗うつもりもないだろう。
そして、ゆくゆくはこの子供たちも……。
チルカの噂やこいつの風貌を見る限り、まっとうな仕事を得るのは海面をすくって真珠を掴むくらい難しいだろう。
心配そうにゴトルの手首をさする子供たちが目に入る。
こいつを牢に入れ子供たちを孤児院へ届けることが本当に正しいのか?
思案をやめ、首を上げると目の前にキーネがいた。
相変わらずの仏頂面だが、敵意は感じられない。
「あー、なんだ。お前もなかなか度胸があるな。リザードマンと張り合えるなら将来立派な戦士になれるんじゃないか?」
目の前の表情が変わることはなかった。
子供が喜びそうな事を言ったつもりなんだが。
俺たちの様子を見つめていたクワラがひょいと横から首を出してきた。
「あー。キーネは喋らないんだ」
「喋らない?」
「そ、何も話さないから俺たちも理由は知らない」
逆側からもニコラスが顔を出してきた。この距離で見て初めてブラウンの頭髪であることに気づいた。今はすすけて黒になっている。
「でもさ、絵はすっげえ上手いんだぜ! あんたも見ただろ?」
ニコラスの言葉に首をかしげる。絵なんて見たことあったか?
「あの壁の絵だよ。良く分かんないけど綺麗な女の人の絵があると男は立ち止まるからって親分が……」
「待て、あの絵はお前が描いたのか?」
仏頂面が僅かにほころび、控えめに上下した。
驚きだ。あんなに上手い絵を子供が。
その時、雨雲を切り裂く光芒のようにある考えが頭をよぎった。
ひょっとしたら、上手くいくかもしれない。
断片として散りばめられた情報が頭の中でパズルを形作っていく。
「なあ、キーネ。お前どんな絵でも描けるのか?」
「こいつはどんなのでもお手のもんさ」
ニコラスが自慢げに言うとキーネの肩をバンバンと叩く。
叩かれた方も満更でもない様子だ。
腕利きの絵師にあのチルカの弁舌。
これなら。
「なるほどな、それなら……」
「あー言っとくけど絵は売れないよ。俺たちもやろうとしたけど金を出して買う奴なんていない」クワラがつまらなさそうにつぶやく。
「いーや。俺の考えは絵を売ることじゃない。絵を使うのさ」
俺は雨に打たれていたアニモを大声で呼ぶとゴトルの前で座り込む。
根無し草のチルカは呆気にとられて髭に覆われた口を開けっ放しにしていた。
「さて、ゴトル。一つ考えがあるんだが……のってみるか?」




