翠三葉は翠朋也で出来ている
「はい」
「ほい」
「へい」
「翠先生、ご機嫌ですね」
奇声を発しながらストレッチをしている三葉を美子は珍妙な生き物を見る様に眺めた。
「うん、旦那さん帰ってきたからね」
「おお~。本当に旦那さん大好きなんですね」
三葉は不思議な顔をした。
「好きだから結婚した、よ。旦那嫌いな人なんているの?」
「まあ、そうですけど、結婚して6年なんですよね?翠先生みたいに付き合い始めみたいにラブラブなのは珍しいかも。私も今の彼氏と付き合って二年で、好きですけど、慣れてきちゃったっていうか、存在が当たり前になっちゃった感じですよ」
「あんまりいっしょにいられないからかな?慣れるってことはないね。顔を見ると飛びつきたくなるよ」
「マジですか?」
「聞いていた以上にすごいね」美子は口の中で呟く。
「どんな話聞いてたの?」
えっ、美子の口はポカンと開いた。
「ど、どんなって」
「私が旦那を好き過ぎるって?」
「ええ、まあ」
本当に小声で呟いたのだ、聞こえるはずがない。
「そんなに話題になっているんだ。みんな驚くんだよね、旦那を好きでなんでそんなに驚くんだろう?」
「翠先生が正しい」
終わったはずの会話が続いて行く、その違和感を美子は飲み込んだ。
「まあ、愛の形は色々。好きに話題にして下さい」
じゃあ行くね、と片手を上げると三葉は去って行った。
その後ろ姿を見送りながら、首を傾げる。
美子はしばらく立ち尽くしていた。
「どうしたの?」
ヒャっ、突然の声に美子は飛び上がった。
「聡里さん止めて下さいよ。心臓飛び出ましたよ」
「だから、どうしたの?」
美子はしげしげと聡里の顔を眺めた。
「何?」
声に苛立ちが混ざる。聡里は無駄を嫌う、会話もそうだ。美子は慌てて話を続けた。
「今、翠先生と話していたんですけど、心を読まれてしまって・・・」
上目遣いでいつでも冗談に切り替えられるように話す。
「ああ、美子ちゃん知らなかったんだっけ」
「えっ?翠先生ってエスパーなんですか?」
「いやいや、そこまでではないよ」
聡里は手を振る。
「ただの、地獄耳だよ」
「ただの?」
そこは聞き直さずにはいられない。
「そうだよ、目も良いんだよ」
「あれがただの地獄耳?」
いやいや、美子の頭は否定する。
「ありえない」
聡里はそんなことかと、自分もコーヒーを入れる。
コーヒーにうるさい環が休憩室に高級なコーヒーメーカーを置いているので、この病院のコーヒーは本格的で美味しい。部屋の中にコーヒーのいい香りが広がる。
コポコポとコーヒーの落ちる音を聞きながら、聡里は冷蔵庫からじぶんの牛乳を持ってきてカップに注いでいる。出来上がったコーヒーをそこに流し込む。
「本人に聞けばすぐ答えてくれるから話すけど、」
カフェオレを口に運びながら聡里は話し続けた。
情報収集をしていて分かった事だが、この主任看護師は噂話を嫌う。聡里からは内緒の院内事情を聞けたためしがなかった。
「翠先生、IQが高くて子供の頃英才教育を受けてたんだって。その過程で人より五感の感覚も鋭いことが分かって、そっちの方も能力を高めようってなって訓練を受けたことがあるんだって。まあ、初めてだとびっくりするけど、慣れるよ。地獄耳だけじゃなくて目も良くて読唇術もできるからとにかく近くで言ったことは大抵聞こえちゃうよ」
美子の目は丸くなったままだ。
「そんな超人なんですか・・・」
驚いた美子の顔をおかしそうに聡里はみつめた。口元が上がり、いたずらを思いついた子供の顔になる。
「いや、新人さん久々だったから新鮮な驚きね。でも、ゾーン状態になるともっと凄いのよ」
「ゾーン状態?」
美子は先日トイレで盗み聞いた会話を思い出す。
三葉が難しいオペに参加するのは『特別枠』、そんな話だった。
「そうなの、もうあれはAIだね。瞬時に状況を判断して、最適な解決方法を示してくれるのよ」
あれは凄い、その時の状況を思い出し聡里が身震いをする。
「あれを目の当たりにすると天才って本当にいるんだって実感するよ」
美子も何度か三葉と同じ手術に入っている。確かに新人の医者としてはとても出来る医者だと思う。天才だとも思う。だけど、聡里が今話した内容にはその姿は一致しなかった。だから聡里の言う実感が湧かない。美子は上辺だけで「へぇー」と答えた。
でも、ひどく好奇心は掻き立てられた。
「そのゾーン状態って難しい手術の時だけ入るんですか?」
「難しい手術の不測の事態の時に、院長に誘導されると入る、って感じかな」
「院長に誘導?」
なんじゃそりゃ、美子の顔には?が大きく浮かぶ。
「そのうちミコちゃんのも立ち会うことになるよ。こうご期待だね」
アハハハと笑いながら聡里はロッカールームに消えた。
「えー、ここまではないわ。気持ち悪いじゃないですか~」
美子は後を追っていく。
「ゾーンはもういいですわ。院長の誘導?そっちのほうを詳しく教えて下さいよ~」
ロッカールームには美子の悲痛な訴えが響いた。