翠三葉は翠朋也で出来ている
「三葉、あれ買って」
朋也の指す物を眺める。それはモフっとした羊の人形だった。
そして、すでに朋也の両手にはモフッとしたカバと、モワッとしたクマがいた。
「いや、もう今日はいいんじゃない?」
三葉は家のベッドの上に転がるその他もろもろのモフっとした生き物たちを思い浮かべた。
憎きライバルたちだ。増えるのは致し方ないにしても二匹で十分だ。更にもう一匹買うのは遠慮したい。
「そうか・・・」
朋也は別れがたいといった表情で羊を眺めた。
うっと息を飲み、その寂し気な瞳からすぐに目を反す。反らしても一瞬でも目に入れば生々しく記憶されてしまう、厄介な脳を三葉は叩いた。
もう一度ねだられたら逆らえないかも、朋也の手を引くと急いでその場を離れた。
5日前、朋也は79日ぶりに帰ってきた。
今回の任務はきつかったのか朋也の身体からは悲鳴が聞こえた。その疲れがなかなか取れず、正々と甘えられなかった。やっと回復した朋也に気分転換をと思い、少し足を伸ばして大きなショッピングモールに来たのだ。
疲れている朋也はモフッとした柔らかいものを求める。そして、それに癒されるのだ。その効果は絶大だという事を三葉は知っている。もちろん、三葉にも柔らかいものがある。そしてそれを使って朋也を癒すすべも知っている。だが、身体自体が疲れで悲鳴を上げている時は使えなかったり、逆効果になってしまうのだ。
朋也が嬉しそうに運ぶカバの、その触り心地を究極まで高められた生地を恨めしく眺めた。
「チッ」
やるせない嫉妬がつい口からこぼれる。
「うん?」
朋也が顔を覗き込んだ。
三葉は慌てて頭を振った。モフたちは邪魔だが彼らに助けられている事実は変えられない。しかもその助けは大きいのでこうして買い物に出かけてきたのだ。嫉妬をするのは間違っている。
「お腹減った」
笑顔で話題を変えた。
「何食べる?あれ、ここ三葉の行きたがっていた台湾フードのお店が新しくオープンしたんじゃなかった?」
「そう、そこ行きたい」
朋也の片手からクマを奪いその腕に三葉は腕を絡める。
ちゃんと気に掛けてくれている、うれしくて、顔がにやける。
こうしていつもちゃんと朋也は三葉を喜ばすのだ。
二人は仲良く店の前までやってきた。
「ここ、麺とおかゆのお店なんだ」
店の前のメニューを見ながら朋也は意味ありげな視線を投げかけてきた。
「三葉の本当に食べたいもののお店に行こう」
手を引いて移動しよとする。
「ここが本当にいいの」
三葉は引かれた手を引っ張り返し、満面の笑顔で答えた。
朋也の胃腸はまだ回復していなかった。長く家を空ける時、どんな仕事についているか知ることは出来ない。今回はいつにまして任務中最低の食生活を送っていたようだ。
モフたちに嫉妬できても、三葉は朋也の仕事には嫉妬できなかった。
「仕事と私どっちが大事?」とドラマや小説で女が男に迫る場面がある、男は「比べられるものじゃない」と言う、三葉はその通りだと思っている。
朋也にとって仕事はとても意味のある大事なもので、自分の存在と比べても意味がないことだった。
だけどもっと身体は大事にして欲しいと願っていた。本人も自覚がある様だがもう若くない、疲れも身体のダメージもそう簡単には元に戻らないのだ。
朋也が握った手に力を込めた。
「いつもありがと、三葉」
三葉の幸せが絶頂にのぼったその時だった。
「キャー」
悲鳴がモール内に響き渡った。
朋也の顔つきが変わる。
三葉の眉も嫌な予感で歪んだ。
「三葉、どこ?」
やはりと、三葉の頬が膨らむ。
「いや、分からないよ」
「三葉、お願い」
屈んで視線を合わせてから、朋也は握っていた手を両手で包んだ。
「おねがい」
声のトーンに熱が籠った。
三葉は抗えなかった。脳が悲鳴の位置を分析する。
「一階上、紳士服の前」
二人で通ってきた場所だ。朋也にも位置関係が分かった。
走り出そうとする朋也の腕を引く。
「待って、人にぶつかりながら走る足音・・・エスカレーターを上に駆け上ってる」
朋也たちが居る一階の中央に大きなホールがあり、そこが吹き抜けで階上が見える。三葉の手を引いてホールまで出た。中央に設置されているエスカレータを駆け上がっている男が確認できた。
「まだ、まって」
また、手を引く。
「あそこっ!」
三葉はホールに集まる人の波を縫いながら去って行く男を指した。
朋也は弾丸のように駆け出した。
一瞬で事は片付いた。男は朋也に組み敷かれ、後ろ手に拘束ベルトで捕捉された。集まった野次馬が「おお~」と感嘆の声を上げる。警備員も駆け寄ってくる。
朋也は男を立たせポケットから厚みのある封筒を引き抜いた。
二階紳士服ブランドの店の手前の角にATMのコーナーがあった。
現金を奪った男がそれをこの男に渡し、自分が囮としてわざと目立つ中央エスカレーターを駆け上がったのだろう。人々の視線はすべて上を向いていた。
朋也は警備員に男と封筒を引き渡すと、三葉の所に戻った。
「もう一人は?」
三葉は心底嫌な顔をする。
朋也は三葉の肩に頭を乗せるとスリスリと揺すった。
「み~つ~は~、おねがい~」
甘い声だ。
三葉は目を瞑り、全身に力を入れて抵抗する。
朋也は耳元に口を近づけた。
「お願い」
そのまま耳たぶを甘噛みする。
三葉の抵抗は砕けた。
もう既に三葉の脳は入り口にあった案内板の映像を再生し、立体化していた。
「たぶんだよ、さすがに足音追えなかったし。立体駐車場と繋がっている地下B出口へエレベーターで下りてくるんじゃない」
最後まで聞かずに朋也が駆けだした。
「黒のジャケットとズボン。黒いスニーカーに一本白いライン。身長168センチ、体重62キロぐらい。右耳下に1センチぐらいの痣」
遠のく背中は軽く右手を挙げて応えた。
このモールはいつでも混雑している。その割にエレベーターの数は少なく、利用者は常に苛立っている。朋也が階段を駆け下り、中央から西端のB出口エレベーターに着くと丁度下ってきたエレベーターのドアが開いた。数人の人の塊が出てくる。朋也は、三葉の言った特徴を見逃さなかった。
足早に出てきた男の後ろにさっと近づくとそのまま腕を捻り上げた。
男が悲鳴を上げる。
「このモールでひったくりが頻発してるって聞いていたけど、一回目で巡り合うなんて俺はもってるね~」
可愛い顔でニタリと笑った、その笑顔はどこかヒンヤリとして薄気味が悪い。
「ある程度まとまったお金を下ろした女性ばかりをターゲットにして、突き飛ばす。先月の被害者は足を骨折した」
「怪我をさせるつもりはなかったんだよ。あの女は転び方が下手だったんだ。あの女自身の運動神経のせいだ」
朋也の顔から笑顔が消える。
「俺はお前みたいな利己的で想像力のない人間が嫌いだ。お前のような浅はかな人間の起こした行動で人が傷つくのを憎む。お前が誰かを殺してしまう前に捕まえることが出来て、今日は僥倖だ」
男の腕を捻り上げたまま朋也はエレベーターに乗り込んだ。
一階に戻ると、通報でやってきた警察官たちと出会った。
事情を話し、男を引き渡す。
もう少し詳しい事情をと聞かれ、「連れが待っているので、警察署まで出向きます」と警察官の名刺を貰うとその場を後にした。
ホールまで戻ると、別れたその場所にそのまま立っている三葉が見えた。
遠くからでもイライラしているのが見て取れる。
「三葉みたいな能力がなくても、何を思っているか分るな」
そう考えて朋也は笑った。
真っ暗な中、朋也はゆっくりとベッドから身体を起こした。身体を傾け滑らせるように腕にいた三葉を枕に移す。ぐっすりと寝ている可愛い寝顔をしばらく眺めてから、おでこにキスをした。
ベッドから静かに下りると羽毛布団が捲れ三葉の自慢の胸が露になる。布団を引っ張り上げ、隙間から冷気が入らない様に押さえ込んだ。
自分は裸のまま部屋を出るとバスルームへ向い、シャワーを浴びる。自室に戻りパソコンを開いた。
部署のチャットルームに入り、沢口を呼び出す。
「こんばんは、いますか?」
普段連絡取る時間なので、沢口からすぐ返事が来た。
「おう」
「この前の話、ドンピシャでした」
「まじっ、お前もってるな~」
「ですね」
「クローバーちゃんのおかげか?」
「ええ」
「やっぱ、ずば抜けた能力があるんだな」
三葉の想いを真剣に受け止めると決めた時、沢口に相談した。直属の上司になってからは何かと相談していた。
「そう思います。でも、俺のためじゃないと普通、で合っていると思います。普段も普通じゃないですけど、そこまでじゃない・・・」
「ノロケかよ」
「まあ」
「・・・大丈夫か?」
「ええ、俺といなきゃほぼ普通なんで大丈夫かと」
「まあ、でも気をつけとけよ。神服博士ってまだ見つかってないんだろう?まだ、アメリカさんは探してるかもしれない」
「ええ」
「所轄に何か言っとくか?」
「いえ、普通に見たままを報告してきますよ」
「そうか、じゃそういうことで」
「はい。おやすみなさい」
会話を終えると画面からすべてのやり取りが消えた。
パソコンを閉じて、しばらく朋也は何もない真っ暗な空間を見つめた。