翠三葉は翠朋也で出来ている
「見ました?」
「何を?」
「動画です」
外から聞こえる声に個室の中から美子は耳を澄ました。
「見てないですよね。なぜかもう見つからないんですよね」
「で、何の?」
美子は音を立てない様に壁に耳を当てた。
男子トイレの個室にいるのは美子のせいではなかった。もうすぐ美子も参加する手術が始まるのだが、一番近いトイレが塞がっていたのだ。一緒に参加する聡里に足をクロスにしたまま目で訴えたら、男子トイレを指さしたのだ。だから、駆け込んだ。すっかり出し切りスッキリしたら、誰かが用足しに入ってきたので出れなくなったのだ。
そして、こうして二人の会話を聞く羽目になったのである。望んで盗み聞いているわけではなく、偶然耳に入ってしまっているのだ。
「五階のベランダから落ちた男の子を通り掛かった人たちが救助する映像だったんですけど」
「おう、すげぇな」
「そこにチラッと翠先生が映ってたんですよ」
「野次馬でか?」
「どうですかね、誰かに頼まれて落ちた子の状態をチェックしてました」
「へー、偉いじゃん」
二人の声が離れていく。すべき事を終えたのだろう。
「それにしても翠先生が難しいオペに時々参加するのって何でですか?」
「何だお前も見学したいのか?」
「えっ」
声だけではその「え」はイエスともノーとも取れた。
「見学したい手術はその時間に身体を空けられれば見学できるぞ」
「えっ、まじすっか。あーでも、身体空けるのか~」
どうやら、イエスの「えっ」だったらしい。
「院長は勉強好きな若者が大好きだから、やる気があれば勉強だけはしほうだいだぞ。変人だけどそこだけは尊敬できるんだよ」
「なら、身体を空けるっていうのなしにしてくれませんかね?」
「それじゃ、簡単過ぎるだろ。このオペ見学したい、でもレポート何にも終わってない、と苦悶する過程がないとダメなのよ。院長の楽しみがない」
院長の性質ってこの病院ではもう当たり前なのね、と美子は納得する。
「それにしても、翠先生は凄いっすね。いつ寝てるんだろう」
「まあな、翠先生のは特別枠でもあるけど、頑張ってるよ。院長の手のひらの上でね」
思わせぶりな、美子は更にドアに耳をつける。
「特別枠?」
「そう、保険みたいなもん」
美子の身体はもうドアにめり込んでいるのではないかと思うぐらいドアに張り付いていた。
「俺も一度しか立ち会ってないけどすごいんだよ、これが、」
声が止まる。
「おい、やばい、時間だぞ」
駆け出していく足音が聞こえる。
美子も慌てて個室から飛び出した。
「もっと聞かせて~。そして置いてかないで。医者よりあとになったら何を言われるかー」
叫び終えると、後を追って猛然と駆け出した。
そこはどこからも隔離され隠されていた。
たとえこの森に詳しい地元の猟師でもこの場所に人が暮らせる家が隠されているとは思いもしないだろう。その家の入口はすっかり森に同化していた。
獣道を上り、しっかりした杉の木の後ろに回る。杉を避けたに過ぎない、だがそこに一畳ぐらいの空間が開ける。滝の後ろに空間がある様に、木立に隠されたそれは秘密の入り口なのだ。
ロバートはドアを開け中に入る。
中は十分な広さがある。必要最低限の物しかないから、広く見えるのかもしれなかった。
「ただいま」
大きな木製のテーブルの上に機材が広がっている。
「パソコン繋がったんだ」
「うん」
話しかけられた女性は嬉しそうに微笑んだ。
「何その顔。いいことあった?」
流暢な日本語だ。脱いだ帽子の下から現れた金色の髪の毛と彫りの深い顔を見なければ、日本人だと思うだろう。
「すごいのよ。さすが、四つ子ね」
その言葉に男の顔色が変わる。
「見つけたのか」
「うん、三葉ちゃんよ」
振り向いた女の顔は、パソコンに映し出されている顔と同じだった。