翠三葉は翠朋也で出来ている
「何故、私が?」
「親切よ、分かる?しんせつ。朋也さんにもよくよく言われているでしょ?他の人にも親切にするといいよって」
朋也を引き合いに出されたことで、三葉の眉間の皺はますます深くなった。
「それと、これと同じなの?」
確かに朋也はよくそう口にする。でもそれは他人に興味のない三葉のことを心配してもっと視野を広く持つといいよ、という言葉だ。
だいたい朋也にそう言われても、三葉には朋也以外の人間に親切にするということが理解できない。三葉が他人に親切にするのは、朋也がご褒美をくれるからという理由からだった。
「同じ、同じ。でも、他人すべてじゃなくていいのよ」
環が顔を寄せてくる。その顔をぐいっと手で押し返した。
「もうこの際だから言っちゃう。病院の患者さんだけでいいわ」
押されて口が曲がったままでも環の声はよく通った。
「さすが、院長。いっそ清々しいぐらいの発言ですね」
美子が笑って手を叩いた。
「すいません、僕のせいで・・・」
その横で吉野が盛大に肩を落とした。
「ほんとそうね」
聡里が冷たく言い放つ。新人が失敗することはよくある事だし、吉野の失敗は小さなものばかりなのでそんなに目くじら立てなくてもいいと思うのだが、ちりも積もればなのかとにかく聡里は吉野に厳しかった。
「そんなにキツイ言い方しなくても・・・」
美子は思わずフォローしてしまう。今回の失敗は吉野はどちらかと言えば被害者だと言えたからだ。
「高部さん、なんで庇うの?」
「いや、だって今回の事は一概に吉野くんのせいとは言えないでしょう」
「常にもっと注意深く行動していれば起きなかったことだよね」
「まあまあまあ、その辺で」
腕を組みそっぽをむいた聡里と吉野の間に環が割って入った。
事の発端は、今病院に入院している困った患者に吉野がぶつかったことだ。
勿論吉野はワザとぶつかった訳ではなかった。むしろ、その患者がワザとぶつからせたのだ。
この患者は、いわゆるVIPというやつだ。この病院を立て直すにあたり多額の寄付を納めてくれた資産家の一人であり、先代からの患者だった。
この患者は、かなり癖のある人物でとにかく扱い難いのである。
今回も人間ドックで入院しに来たのだが、一泊して帰る段になり帰りたくないと駄々をこね始めた。聞けば元々仲のあまりよろしくない嫁に、軽い嫌味を言ったのだと言う。だが、嫁はその発言にブチギレ、今度という今度はと家を出て行ってしまったらしい。
いつもは嫁をなだめ、患者にも気を使ってくれる息子もさすがに呆れたと、一緒に家を出て行ったのだと言う。
患者の家は広大だった。だが少し可愛くないその性格のおかげで家政婦も長続きしなく、今家には誰もいないのだと言う。だから、帰りたくないと。
「新しい家政婦が決まるまでホテルに泊まったらどうですか?」
と環がやんわり断ったら、吉野とわざとぶつかり、吹っ飛ぶという芸を披露して見せたのだ。そして体中が痛いとわめき続けている。
もちろん、一通りの検査をして骨などには異常はない。軽い打ち身だと思われるが、とにかく痛い、これは大怪我だから入院させろと主張している訳だっだ。
もちろん数日入院を延ばしたのだが、困ったことに使っている特別室には、別の特別な患者の予約が入っているのだ。
「お願い、そのゴットハンドと言われる手で、マッサージをお願いするわ、三葉」
環は真顔で手を合わせた。
そう、三葉はマッサージの達人なのだ。
朋也の疲れを癒すために修得した技術なのだが、これが本当に凄いのである。
一度体験するともうほかのマッサージは受けれなくなってしまうほどの腕前なのだった。
「それで?」
凜は環の腕の中に潜り込むように入ると、腕に頭を乗せた。
「皆の説得がきいてやってくれたよ」
「でも、それで気持ち良くしちゃったらますます病院に居たがるんじゃないの?もともと痛みよりも寂しいんでしょ?」
「三葉ゴットハンドはそこが違うのよね。ただ癒すんじゃなくて活力が出てきちゃうのよ」
環の言葉に凜は思わず吹き出した。
「活力が湧き出るの?何それ、知らなかったわ」
「ほら三葉妊活してるでしょう」
「ああ」凜も納得した。
結婚してすぐから三葉は子供を欲しがっていた。始めはそう焦ってはいなかったのだが、自然に中々できないのでここ2年は真剣に妊活に取り組んでいた。
朋也は協力的ではあったが何しろ家に居ない日が多い。出張から帰ってくると疲労が抜けない日が続くと嘆いていた。
「相当研究したらしいのよ。それに三葉の五感をフル活動させるから、効果抜群なのよ」
「女の人にも効くの?」
「あそこを元気にするだけじゃないよ、もう強烈な強壮剤の効果があるの。だから、ベットでのんびりなんてできないようになって、すぐにでもどこかに出掛けたくなると思う」
自信満々の環の鼻を、ギュッと摘まんだ。
「痛っ」
環は驚いて鼻を押さえる。
「どうしたの急に」
凜は見開いた環の瞳に冷ややかな視線を送った。
「どうしてそんな確信をもって話すの?試したでしょう?いつ、何で試したの?」
腰に回していた手で脇をくすぐった。
環は思わず身体を捩じった。
「止めて、くすぐらないでよ」
笑いながら反対に凜を抱き締めていた手に力を込める。
「もちろん凜のためよ」
コツンとおでこを合わせると、じっと瞳を見つめる。二人の瞳が合い凜が目を閉じると、環はそっとキスをした。
環のキスはいつも優しい。
環は愛情を示す時、必ず凜に確認する。付き合い始めた当初は何でも口にした。
「手、繋ぎたい」
「抱きしめていい?」
「キスしたい、ダメ?」
聞かれて恥ずかしいのだが、凜はうれしかった。
環に自分の過去をすべて話してはいない。子供の時の生活は酷かったと、いう程度の話ししかしていなかった。
でも、環の見せる気遣いは、スキンシップが極端に苦手だった凜に恋愛に踏み込む勇気をくれた。
付き合いが進み凜が「恥ずかしいからそんなに聞かないで」とお願いしたこともあり今では言葉にすることは少なくなったが、環がいきなり凜の身体に触れることはなかった。
環の愛情を身体に感じながら、凜は思いを口にする。
「環、大好き」
「私の方が大好きだから」
環が答える。
最近の行動がおかしいと環は気づいているだろう。
でも、口に出して説明するつもりはなかった。
あの森での生活は異常な事だ。
話せば環は凜の心に寄り添ってくれるだろう。でも、本当に理解することは出来ない。
それは、仕方のない事。凜自身もあの森での生活をもう別世界の事のように思っていた。
夢やフラッシュバックを見ることはあっても、あの世界と今の生活は全く別な次元に存在していると感じている。
ニュースで凶悪事件やテロや戦争を見るように遠い出来事だと。
凜はその別世界に戻ることにした。
でも、環をその世界には連れていかない。
環はその世界を知ることも想像することもない。
深淵を覗くことなど、絶対にさせたくなかった。
環の温かさを感じながら凜は何度も口にする。
「環、大好き」
環はきっと解っていてくれる。
黙って待っていてくれるだろう。
凜はそう願った。




