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翠三葉(あおいみつは) は 翠朋也(あおいともや) で出来ている  作者: 椛こま


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19/44

翠三葉は翠朋也で出来ている 

 

 兄の後を追いながら、その大きな背中を見ていると、凜は否応なしにあの薄暗い小屋へ引き戻される。


 その小屋での生活の記憶は曖昧だった。

 曖昧なのに克明だった。

 記憶の中にはいつも私を守っている二人の人物がいる。

 一人は兄で、一人は母だ。

 初めは兄だけだった、母がいつそこに連れてこられたのかは分からない。

 その怪物の住処に。

 

 怪物は普段は物静かな男だった。

 朝早くに起きてどこかに行く、夕方暗くなる前に帰ってくる。

 毎日日課のようにこれを繰り返した。

 そして、突然豹変する。

 私と母は普段はこの男と顔を合わすこともなかった。私たちの暮らす部屋は小屋の地下にあり、小屋を出るあの日までそこから外へ出たこともなかった。

 兄だけが上と下を行き来していた。

 男は怪物になると下に降りてきて、まず母を殴った。

 それを止める兄を殴った。

 実際に自分の目でその行為を見ていたわけではない。

 怪物が下に降りてくる時には必ず部屋の隅にある兄が作った狭い箱に隠された。

 その箱は膝を抱えて座れるだけの大きさで真っ暗だった。

 その箱の中で自分の膝を必死で抱えながら息を殺し、母と兄が殴られる音を聞いていた。

 打撃音が終わると、怪物の粗い息遣いと打撃音とは違う鈍い音がする。母のうめき声と兄の苦し気な叫び声がする。

 恐ろしく長く、気の遠くなるような時間をその箱の中で過す。

 そして、痣だらけの二人に救い出されるのだ。


 母の前にもその地下には女の人がいた。確かに何人かいた。その内の一人はもしかしたら本当の母だったかもしれない。

 その誰もが怪物の暴行に耐えられる身も心も持っていなかった。いつの間にか来て、いつの間にかいなくなった。

 だが、母は違った。

 その酷い環境にいながら、それに耐えた。

 耐えただけではなく、私を育てた。

 それまでも、食事だけは兄が必死で運んでくれていたが、母は私に言葉を教えてくれた。

 兄は沢山の愛情を与え示してくれたが、母は人が生きるために必要なことを教えてくれた。

 生きる意味を教えてくれた。

 そしてどんな環境にも光は差し込むことを。


 永遠に続くと思われたこの生活にも終わりがあった。

 切っ掛けは怪物の視界に私の存在が認められたことだったと後から理解した。

 怪物はそれまでも私という子供がその地下にいることは知っていた。知ってはいたがそれだけだった。でも、母が来たことによって私の止まっていた成長が進み始めたのだろう。私は、たぶん同じ年頃の子供に比べれば未熟だったとは思うが、急速に成長した。

 そして、怪物の目に女として映ってしまった。

 兄と母はそれを一番恐れていたのだと後から知る。

 そして、兄はそうなった時の覚悟を決めていた。

 その覚悟は、綿密な計画を伴っていた。

 そして、その計画は実行された。

 土砂降りの雨の日だった。

 兄は私と母の手を取り小屋から連れ出した。

 ずぶ濡れになりながらも、ただ、ただ、嬉しかった。

 兄と母に手をひかれ、あの地下から解放されたその喜びは今も言葉にならない。

 一晩中歩いて、兄は一人の男の家に自分たちを連れていった。

 そこで初めて風呂に入った。

 温かい湯船に母と浸かった瞬間のあの気持ち良さが忘れられない。

 そしてふかふかの布団に母とくるまって眠った。


 朝起きると兄はいなかった。

 母が半狂乱になり男に詰め寄って、兄の行方を聞いていた。

 私も狂いそうに不安になったが、その母の姿を見て自分の心を抑え込んだ。

 男は淡々とだが優しく、何度も何度も、探しに行くと言う母を説得した。

 男の根強い説得と兄の手紙が母の行動を止めた。

 それからは私たちは、世捨て人のように暮らしていたその画家の家でひっそりと暮らし始めた。

 一年が過ぎた頃、男は母と結婚した。そして私は二人の娘として戸籍を得た。

 野坂(じん)、野坂光咲(みさき)の娘、野坂凜になった。

 はっきりとした年齢は分からなかったが、母が兄に聞いた所だと、私は小屋を出た当時13歳ぐらいだろうということだった。

 私は父の家で、父や母、ネットを使って勉強を積み、中学の三年から学校へ、そして高校へ進学した。

 高校進学を機に、私たちは引っ越した。

 人がまばらな過疎地のような場所から、小さな町へ。

 世捨て人のような暮らしをしていたが、父仁はそれなりに名の知れた画家で、私たちの生活は安定していた。

 落ち着いた高校生活を送るようになって初めて私は兄の行方を、あの小屋での出来事を調べ始めた。ずっと、調べたかった、兄に会いたかった。

 でも、それをしてはいけないと重くブレーキを踏み続けていたのだ。

 母や父に知られてはいけない。あの小屋での出来事はなかったようにしなければいけなかった、特に私は。

 母にとっても父にとっても私があの小屋を忘れる、それがどんなに彼らを幸せにするか分かっていたから。

 母は引っ越しても、私に隠すように定期的に昔の父のアトリエに通っていた。兄が唯一知っている私たちの足跡だからだ。

 アトリエに行った日の夜、疲れた顔で一点を見つめて考え込むその横顔が何を意味しているのかはすぐに想像ができた。 

 だから、私は黙って自分で調べることを選んだ。

 そしてそれは余りにもあっさりと調べがついた。

 逃げた日付を検索したら、すぐにショッキングでセンセーショナルな事件の記事に行き当たったのだ。

 山小屋殺人事件。

 父親を殺した息子が自首。

 その山小屋の近くから六人の白骨死体発見。

 最初の頃こそ、父親殺しの息子の事を大きく扱っていたメディアも、息子が未成年で、殺された男が猟奇殺人犯だと分かると、その扱いも劇的に変わっていった。

 結局、兄の存在はなかったかのように消えてしまう。

 怪物の起こした事件はその後も長く報じられていたが、その事件に母も私も存在していなかった。犯人が死んで、事件のすべてを知り得るだろう加害者である兄が私たちを守っただろうことは、調べるまでもなく分かることだった。

 そこまでの事実を突き止め、私はようやく母に兄の話をした。

 「兄さんに会いたい、すごく、会いたい」

 私の訴えを母は黙って聞いた。そして、私の頬に手を置き、じっと私を見つめた。

 「アキっていうの。秋に生まれたんだって」

 初めて聞く兄の名前だった。

 そうして、母は事件の話を始めた。

 小屋を出る計画はかなり前から兄と母の間で計画されていたと。怪物の視界に私が入り始め計画を急いだが、兄はずっと前からその事を考えていた。

 怪物は住んでいた小屋の回りの山を管理していた。それは、どのように始まったかはわからないが、私たちが暮らしていた山は私的なもので、その管理会社から委託されていたようだ。そのことは事件後の報道でもかなり詳しく取り上げられていた。

 人付き合いは全くなく、兄は怪物と世間を結ぶパイプラインの役目をしていた。

 日用に必要な物を買い、管理会社との連絡も兄がしていた。

 兄には自由になる時があったように思えるが、怪物の兄に対する管理は想像以上に厳しいものだったと母は話した。

 外に出る時間はしっかり決められていて、兄には用事以外の何も出来ないようになっていた。その不自由な中で兄は父、野坂仁を見つけ私たちの面倒を見ることを頼んだ。

 二人の間にどんな繋がりがあったかは母にもわからないことだったが、仁は固くその事を約束し、守った。

 母はあの日の朝が来るまで、野坂のアトリエで三人でやり直すつもりだった。

 兄にその後の計画があることなど、想像もしていなかった。

 「でも、」と母は言葉を切った。

 「でも、それは分かり切ったことだったのに。あそこから逃げられる、そのことは麻薬のように私を麻痺させていたの」

 自分たちが逃げればどうなるか、母は兄の「大丈夫」という言葉を何の抵抗もなく受け入れてしまっていたのだと。

 あの怪物が逃げた自分たちを放っておくと信じていた。

 今考えても、「何故?」と自分を呪いたくなると、母は涙を流した。

 「どうやって逃げたの?」

 当時私はまったくその計画を知らなかったが、怪物が私たちを監禁するという事に関して、異様に頭の切れる男だったということは身に染みて理解していた。

 食事を限りなく制限させられていた私たちは痩せこけていた。肢体に力もなく、怪物を力で抑制することは無理だったので、どうやって怪物を無抵抗にしたのか知りたかった。

 睡眠薬で眠らせたのだと、母は言った。

 怪物はとても警戒心が強く、普段自分の食事は市販の総菜か菓子しか食べなかった。

 だが、大雨の日だけはカレーを兄に作らせたのだという。その理由は分からないが、それが絶対的な事柄だったため、兄はいつチャンスが来てもいいように準備を整えていたのだと。

 だからあの日は嵐のようだったのだ。

 

 兄が警察に自首したので、何年か少年院で過ごすことになった事までは容易に想像がついたが、事件がその異常性から注目が高く、母は自分を隠したままその後の事実を確かめることが出来なかった。別の手立てを試したが兄の状況は中々確かめられなかったという。

 そして分かった時には兄はもうそこにはいないという事実だった。

 母は月に一度、アトリエに行く。

 アトリエの周りをくまなく歩き、誰かが来た形跡がないか確かめ、部屋を掃除し、インスタントだが美味しいものを選んで机にならべ、寝具の手入れをする。

 いつ兄がここへ立ち寄ってもいいように。

 いつか、必ず会えると信じて。

 そして、私は精神科医になった。

 兄の特殊な幼少期を考えれば、小さな欠片でもその心のバランスを崩すのは簡単だろう。その助けになりたかった。力になりたかった。また、医療刑務所に関わる事によって、兄の情報が何かつかめるかもと考えたからだ。


 兄と朋也は、幸い徒歩数分の場所のホテルの中に入って行った。

 部屋の番号までは尽き止められなかったが、エレベーターを降りた階は確かめた。

 凜は一息つきながらも、次に取るべき行動を慎重に検討し始めた。



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