翠三葉は翠朋也で出来ている
車がガタガタと揺れた。
恐怖で身体が思う様に動かない。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい」
隣から母のすすり泣く声がする。母を見ると、涙と鼻水を拭くこともせずハンドルにしがみつきながら必死で運転をしている。
「母さん、母さん」
何度も呼ぶがその声は母には届かない。
「母さん、母さん」
それでも、必死に呼びかける。
ああ、夢だ。
朋也は夢の中で藻掻く。
母に呼びかけながらフロントガラスの向こうに視線を送る。
黒のセダンが蛇行しながら前を塞ぐように走っている。
やっと次の高速出口の案内が見える。母は必死にハンドルを左にキープする。だが前を行くセダンが急にブレーキをかける。
母も慌ててブレーキを踏む。止まりはしない、その車は三車線に増えたその車線に車を割り込んだ。
「いや、やめて。もうやめて」
何度目かの妨害に母の声は消え入りそうだ。
「母さん、母さん」
声を掛ける事しかできない。その声も擦れてもう自分でも何と言っているのか聞き取れない。
「朋也さん」
激しく揺すられ、朋也は目を開けた。
目の前に三葉の顔がある。
「大丈夫?」
三葉は自分のパジャマの袖で、額、頬、首の汗を拭っていく。
「ああ、久々に見たな」
「うん」
汗を大まかに拭い終えるとベッドのサイドテーブルからペットボトルを取りフタを開けた。
「お水飲んで」
朋也の口に運ばれたそれが渇き切った口の中を湿らせた。
三葉の手からボトルを受け取ると、ゴクゴクと飲み干す。
「ありがとう」
ボトルをサイドテーブルに戻すと三葉は朋也の頭を抱きかかえた。
寄せられた胸から心地よい心音が聞こえてくる。
「大丈夫、朋也さんはちゃんと救ったよ。あの娘のSOSちゃんと聞きつけて、ちゃんと救った」
耳元で囁かれる声はいつも優しく温かい。
「うん。ちゃんと救った」
朋也は答える。
「うん」
背中に回された三葉の手が優しくポンポンとリズムを刻む。
朋也は三葉が奏でる音に身を任せ、もう一度眠りについた。
高速に入る、母の運転がぎこちなかった、それは確かだった。
急に入り込んできたコンパクトカーにイラっと来たのだろう、その男は執拗に母の車を煽って来た。そのうち前に出て進路妨害を繰り返し、幅寄せをし、窓を開けて罵声を上げた。
高速を下りることも、逃げ切ることも出来ず、パニックになり疲れ切った母はハンドル操作を誤り、防音壁に突っ込んだ。
「朋ちゃん」
激しい衝撃と同時に名前を呼ぶ声を聞いた気がする、その後の記憶はなかった。
次の日、病院で目覚めた。腕、足を骨折したが幸い命に別状はなく、治る怪我で済んだ。
手を握り締め泣きじゃくる叔母から母の死を聞かされた。
何一つ現実感がなかった。
怪我が治るころやっと事故のその後の話しを聞けるようになった。
逃げた車を捕まえてくれ、と叔母は何度も警察に訴えた。だが、結局は母の自損事故として処理されてしまい、警察は相手の車を特定する努力もしてはくれなかった。叔母と一緒に何度も警察に足を運んだが、訴えが拾われることはなかった。
不条理だ。
相手の男に対する怒りはもちろんだが、朋也はそう強く感じた。
こんなことがあっていいのか。
運転が下手だった、それだけで、あんな目に合わされた。永遠の恐怖に突き落とされた。
母はずっと、謝り続けていた。
やめてと叫び続けていた。
誰か助けてと呼び続けていた。
ただ毎日を普通に送っていた、善良な人間があんな恐怖の中で死ななければいけない。そんな理不尽な事があっていいのか。
叔母は相手の男を憎んだ。自分勝手な行いで人ひとりの命を奪った事実を知らしめたいと強く望んだ。だが、朋也は相手の利己的で愚かな行為より、事故が起きたことへの怒りが強かった。
なぜ、公共の道路を違反行為もなく走っていて、目撃した人もいただろう、監視カメラもある、なのに一時間以上の間何の助けも得られなかったのか、この不条理が許せなかった。
だから警官になった。
より多くの声なき声を聞けるように、キャリアの道を選び、高い技術を身につけた。
そして、起きた事件の解決より、事件を未然に防ぐことへ情熱を注いだ。運よくその道も開けた。
それでも、こうして夢を見る。
母を救えなった罪悪感なのか、死の恐怖なのか、いつまで経っても鮮明で、消えることはない。
朋也は三葉の胸に額を寄せる。
三葉の温かさだけが、救いだった。
三葉にくっついていれば、もう一度同じ夢を見る事はなかった。




