斉田一人の独り言「神事は呪文から~はじめに言葉ありき」
一人さんの言葉で、「神事は呪文から~はじめに言葉ありき」という言葉があります。神事って何だろうと考えてみます。神道における神事は、信仰そのものであり、全ての行為が神事、という意味合いがあるようです。
ご神体に手を合わせたり、感謝したり、供え物をあげたりする事も、神様との交流ですから、神事だと言えるでしょう。一人さんの言う「神事をやっている人」っていうのは、特定の信仰をしていなくても、日々の生活の中でこういう事をやっている人を言うのかなあと思ったりします。
一人さんによれば、百人に一人、ごく稀に「心に灯をともす事が出来ない」人がいるそうなんです。それは、全く人の話を聞かない人なんだそうです。その人の事を想って「こうしたら良いですよ」って言っても、「それは出来ません」って反対意見を言うんだそうです。
まあ確かに、相手の事を想って親切に教えてあげているのに、頭ごなしに否定されたらムッとしますよね。実は私も、どちらかと言うと天邪鬼のほうで、世間の常識だと言われる事に疑問を持つ質なんです。
以前、義理の母に、スイカの切り方で「こう切るのが常識でしょ! お母さんに教わらなかったの?」って言われた事がありまして、確かに母親にスイカの切り方を教わらなかったってのもありますが、「常識でしょ!」って言われた時、「えっ? スイカの切り方に常識があるの?」って思ってしまいました。
まあ、義理の母が育った場所と、私の生まれ故郷とでは、距離にして千四百キロも離れていますから、その地方によって常識はかなり違うと思いますが。醤油の味も違いますしね。だから、これが世間の常識でしょって言われると反発したくなるんです。
例えば、欧米と日本においても違いますよね。欧米の人は、宗教を信じるのが当たり前、日本人のように宗教を持たないのは信じられないって言うんです。また、唯一の神を信じる一神教の欧米人は、山の神やら川の神などの八百万の神を信じる日本人を馬鹿にしたりしますよね。
どうもキリスト教は、排他的な感じがするんですよね。自分たちが信じる神以外は認めないっていう感じがするんです。遠藤周作原作のハリウッド映画「沈黙」で、カトリック宣教師に代官が話をする場面があります。「あなたたちが自分の国で、自分たちの宗教を信じるのは構わない。でも、日本には日本の宗教がある。ここで広めようとしても根付かない」と。
当時の日本は「キリスト教禁止令」で、キリスト教の布教が禁じられていました。法を破って布教をしたら、罰せられるのは当然です。それなのに、日本はキリスト教を受け入れない野蛮な国だと言って非難するのは、いかがなものでしょうか? 自分たちの宗教のほうが優れているんだから、あなたも信じないといけないと。
ヨーロッパの列強国がキリスト教の宣教師を送ってくるのは、その後に軍隊を送って植民地にする事が目的だったと、歴史が物語っています。キリスト教の神について詳しくはわかりませんが、旧約聖書にはかなり強烈な描写があります。イスラエルの初代王様であるサウルに「アマレクの民を全て生かしておくな」という命令を下して、それを守らなかったサウルを見捨ててしまいます。
神はイスラエルを「我が民」と言い、イスラエルは「我らが神」と言います。私はねたみの神だから、私以外を信じるなと言うんですよね。この辺が、キリスト教が排他的である要因だと思うんです。映画「沈黙」における代官は、あなたがあなたの国でキリスト教を信じるのは構わないけど、日本ではやめてくれと言っています。
「私が信じる宗教のほうが高等宗教で、日本のそれははるかに低い宗教なんだから、私の宗教を日本人が信じるのは当然でしょ?」って感じで、いかにも上から目線で言っているのに対し、日本の代官は日本の宗教を押しつける事なく「お互いそれぞれ信じたいものを信じましょう」って感じで、決して押しつけません。
私はどうも、無理やり押しつけられるのは嫌なんです。「信じろ」って言われると、信じたくなくなるんです。でも、一人さんのお話は、無理やり押しつけられる感じがしないんですよね。「こうしたら良いんじゃない?」って感じで、ご自分が経験して良かった事を紹介してくれるって感じなんです。
感謝の念を持って「ありがたいね」「うれしいね」を呪文のように言ったら良いよって。それも、心が伴わなくても良いんだよって。最初は心が伴わなくても、言ってるうちにだんだん心が伴ってくるよって。ああ、なんかわかりやすくて良いなあって思うんですよ。まあ少しずつですが、頑張ってみようと思います。斉田一人の独り言でした。