第365回異世界転移実験
にぎやかな蝉の声も聞こえなくなり幾日が立っただろうか。穏やかな日差しの中で小鳥たちがさえずっている。
俺はいま狭い浴槽の中で寒天に半身をつけている。そう、あのゼリーの親戚みたいなやつだ。別に、コラーゲン風呂寒天バージョンがやりたいわけではない。まぁ、風呂に入っているといっても実際には手と足を銀色のふちにかけ体を浮かしているのだが。一人暮らしを始めて住み始めた狭いアパートの小さな浴槽だからできる技だ。
しかし寒天を固く作りすぎたのか、ずぶずぶとは沈まずに体重をかけるとバキバキと亀裂がはしって行く。何という悲劇。なんだか体重を寒天にかけてはいけない気がする。正直腕の筋肉が限界だ。ぷるぷるしている。……こんなはずじゃなかった。
なぜ俺がこんなことをしているかというと、理由は単純明快。異世界に行きたいからだ。俺の中には幼いころから、ここではないどこかへ行きたいという気持ちがあった。別に現状に不安があったわけではない。むしろ毎日ウルトラハッピーだ。でも満ち足りていればいるほどないかが足りない様な気がしていたんだ。
そんななか中学生の時に異世界転生というライトノベルのジャンルに出会った。あの時の衝撃は忘れられない。自分に欠けていたピースがやっと見つかったみたいだった。きっと俺に足りないのはドラゴン、聖剣、魔法だったんだ。そうして俺の異世界に行く方法探しは始まった。
それからはありとあらゆる方法で異世界に行こうとした。高校も異世界転移しやすいようにかっこいい名前のところに進んだし、剣道もやった。やりたくもない生徒会にだってはいった。
それなのに、俺は高校を卒業してもまだ、異世界に旅立つことが出来ていない。たいがい異世界転生、転移をしているのは高校生までだ。中には社会人を描いた作品もあるが数は劣る。
追い詰められた俺が考え付いたのがこの、寒天風呂計画だ。肉体と魂をとりあえず離してみようと思ってやってみた。魂だけになれば異世界に行けるかなぁみたいな。控えめに言ってちょっとおかしかったんだと思う。どうして魂が寒天に溶け出すって思ったんだろう。ひらめいたときはすごくいい方法だと思ったんだが。でもちょっとおかしいぐらいじゃないと異世界に行けないよな。
腕が疲れすぎて魂だけ気合で体から出す行為に集中できない。俺の悪いところは思いついたらよく考えもせず行動に移してしまう所だな。あぁ、そうそうこの計画は理科の実験で寒天に電気を流して遺伝子を競争させているのを見て思いついた。電気泳動とかいうやつだ。ちなみに俺は文学部哲学科一年、理科とは一生友達になれそうにない。
「ピピロン♪」
ズルッ
「うわッ!?」
突然鳴ったスマホの通知音にびびってしたたかに腰を浴槽に打ち付けた。普段から連絡を取り合うような友達もいないから油断していたんだ。
寒天風呂計画で学んだことはただ一つ。寒天のクッション性は低い。尻はジンジンするし、全身に寒天のかけらがくっついて光り輝いている。はぁ、とりあえず体をざっとシャワーで洗い流し浴室を出る。
「うーんと、なになに……お! まじか。」
通知はオカルト研究会の大津先輩からだった。20人ほどいる研究会の中でも俺が最も話しやすいと感じている一人だ。
〈けして遠くない未来我らが門をたたきし同輩あらわるだろう〉
大津先輩はかわいらしい女の子なのだが、占いマニアだ。いつも黒っぽい服を着ている。これは近々オカルト研究会に新入部員が入るってことだな。もうそろそろ秋なんだが。後期から入るってことだろう。大津先輩の占いは結構当たるので期待大だ。
適当に服を着て反省会を始める。風呂掃除のことは後で考えよう。今回の反省点は……多いな。寒天で魂と体を分離できると思ったのは、ほら、あれだ。高校ぐらいのときにやったDNAの実験。それに発想を得てやったんだ。そこまではいいとして……
まず魂を取り出して異世界に行くってことだったが魂だけで異世界に行くとなると転生ってことになるか。そうなると俺、死んでいるのと変わらなくないか? トラック転生みたいな感じで。俺あんまり死にたくないんだが。そもそも魂だけになれば異世界に行けるのか? 誰か魂だけになった人いないかなぁ。是非とも話が聞きたい。
あっそうだ! 幽霊に話を聞けばいいんじゃないか。なんで今まで思いつかなかったんだろう。幽霊 居場所 検索っと。どうやら自殺名所と言われる場所にいることが多いらしい。自殺名所、行ってみるか。いくら大学生に夏休みが長いといってもあと三日しかないのだ。思い立ったら吉日。行くしかない。どうせ行くなら海がいいよな。夏休みだし。俺の午後の予定は幽霊を探し出し、話を聞くことに決まった。
もうそろそろお昼か。腹も減ったのでご飯にすることにした。食パンを取り出し真ん中をぐりぐりしてへこませる。そうしてできた窪みに卵を落としハムを上から乗せて魚焼き機に突っ込む。頃合いを見て取り出し、スライスチーズをのせてもう少し焼けば簡単ランチの完成だ。面倒なのでこれ一品。オレンジジュースを添えて。
見た目はただのチーズトーストなのだが、ナイフをいれるとトローっと黄身が出てくる。チーズと黄身のまろやかさがハムの塩気に引き立てられ、カリッと焼かれたパンを料理に昇華させている。パンの白、ハムのピンク、そして黄金に輝くばかりの卵黄。見た目も結構きれいだと思う。何より、洗い物が少ないのが素晴らしい。一人暮しの身としては洗い物をなるべく減らしたいのだ。
腹ごしらえも済んだことだし、幽霊がいそうな海をピックアップして行く。やっぱり日本海側の断崖絶壁だよな。ここから近いところでも電車で四時間強。結構あるな。幸いお盆にバイトした残りが結構あるし、夏休み中に終わらせなければいけないこともない。金と時間があるんだ。納得のいく幽霊探しにしたい。
ガタン、ゴトン。人がまばらになった車内は九月中旬にも関わらず少し肌寒い。電車に乗ること早3時間。途中で新幹線にも乗った。どんどん駅と駅との間隔が広くなっていく。電車のドアが開くとふわりと潮の香りがした。
ここか、降りるのは俺一人だった。駅を出るとあたりは閑散としていて、世界中でたった一人になったみたいな孤独を感じだ。潮風がそうさせたのが、夕焼けがそうさせたのかわからないが、綺麗な町だと思った。
スマホの指示に従い海を目指す。五分も歩かないうちに海に着いた。パッと飛び込んできた光景に朝からの寒天風呂の疲れも、長時間の移動でたまって疲れも一気に吹き飛んだ。息をのむような美しさってこういうものをいうんだと思う。
真っ赤な夕日が海までも染め上げて、岸壁に打ち付ける白波と夏の終わりを惜しむみたいな入道雲が金色に夕日を縁取っている。なにより美しいのは中央にたった一人で立っている少女だ。すらりとした肢体にふんわりとした白いひざ丈のワンピース。日本人離れした色素の薄い髪が夕日に染まってさらさらと風になびいている。どこか物憂げな雰囲気も相まって夕日の中に吸い込まれてしまいそうだ。
こんなところでなにをしているのだろう。あまりにもその光景がきれいで声をかけることはおろか、足音を立てることさえも憚られる。体が見えない糸で縫い付けられたようだ。きっと彼女の瞳は菫色だろう。なぜかそう思った。
俺は幽霊探しの目的も忘れて、刻々と色を変える夕日とその光に染まる彼女をみていた。夕日が海に飲み込まれようとしている。この時間の終わりを感じて少し悲しくなった。すると、彼女が突然海のほうへ歩き出した。夕日を惜しむように手を伸ばしながら。下は断崖絶壁である。俺の脳裏にネットの一文がよみがえる。すなわちここは、自殺の名所であると。
「おいっ!」
俺の掛けた声に驚いたのか彼女はふらりとバランスを崩す。まずい。そう思った瞬間、もうこの体は動いていた。彼女に駆け寄りその手をぐっと引き寄せる。抱きしめるような形になってしまった。窺うようにその顔をのぞき込むと、銀の髪に彩られた美しい顔が夕日に赤く染まっていた。彼女の長いまつげが震え、その下にある瞳があらわになる。彼女の瞳は俺とよく似た日本人らしい黒色だった。