第四章(信玄上洛を宣す)‐一
氏政から正式に甲相同盟復活の打診を受けた信玄は、例年年始に行う宿老を交えた軍議の開催を一箇月早め、元亀元年師走、諸将を躑躅ヶ崎館に招集してこう訓示した。
「余は少しでも健康を保っているうちに、遠江、三河、美濃、尾張に発向して、命あるうちに天下の政務を執りたいと考えておる。このことは皆にも常々語ってきたところである」
姿勢を正して信玄訓辞に聞き入る諸将のうち、馬場美濃守信春が声を上げた。
「一朝御下命あれば、我等諸衆心を一つに喜んで御屋形様御上洛の先陣を賜りましょう。それに先立ち御上洛の存念についてお言葉を賜りたいと存じます」
「申してみよ、馬場美濃守」
「御上洛を果たされたあかつきには如何なる政を執り行われるおつもりか」
「よくぞ聞いてくれた馬場美濃守」
信玄はそう前置きしてから
「この戦国の世、法は大いに乱れ諸人我欲を満たすことに狂奔しておる。そのために私戦は絶えん。余が上洛のあかつきには仏法、王法、神道を重んじ、諸侍の作法を定め、政を正しく執り行い世に秩序を取り戻したいと考えておる。これぞ余の望みである」
と、諸将に対し高らか宣言するかのようにこたえた。
「続いて伺います」
山県三郎兵衛尉昌景が信玄の目を見て発言を求めた。
「何故斯くの如く思し召したか」
「昌景。汝にも語って聞かせたことがあったな。父信虎の治世を。
大永、享禄のころ、貧しい人々は打ち続く冷害、日照りに悩まされ、飢餓に苦しんでおった。人々は日々の食に事欠き、蕨粉によって餓えを凌ぐ有様であった。
余が幼少のころ、岐秀和尚に連れられて領内を巡検しておった折のこと。痩せ衰えた百姓が小さな棺を抱えて野辺送りの葬列を歩いていた。余には、その葬列を歩く百姓の子が死んで余が生きている理由が分からなかった」
信玄は遠い昔を思い出しながら続けた。
「だが和尚の許で学ぶうちに、人にはそれぞれ与えられた天命があることを極意したのだ。余は何が故に飢えることがなく、何が故に学び、何が故に武道を心懸けたか。全ては政を正し、百姓の民に安寧をもたらすためだ。天文、弘治のころに我が分国の人々が餓え苦しみ、余が入道したのもまさに百姓の民に安寧をもたらしたいと願ったからに他ならない。日の本三百諸侯あるうちに、斯くの如き極意を得て天下を目指そうという者は他にあるか。昌景どうか」
信玄の決意の程を聞いて、昌景は目を真っ赤に充血させながら
「それほどの御覚悟を以て天下を目指そうという大将を、それがし寡聞にして知りません。御屋形様にお仕えできてそれがしは果報者です。必ずや御屋形様の馬前にて、そのお志を妨げる諸敵を打ち払ってみせましょう」
と誓った。
信玄は
「頼りにしておるぞ昌景。だが汝には、敵を打ち払う以外にもやって貰わねばならんことが山ほどある。余の理想とする正しき政を執り行うために」
と言い、続けて
「今、天下の情勢を鑑みるに、信長は幕政を壟断して恣に振る舞っておる。だが見よ。
現下、信長は江北の淺井、越前朝倉と激しく相争い、叡山を焼討して天下は鎮まる気配がない」
信玄は畿内を巡る情勢に言及したあと、
「信長は天下布武の印判を用いているが、これなど天下に至る一方法に過ぎぬ。思うに信長には、上洛後の政について確たる理想が欠けていたのであろう。力あるだけでは天下は定まらぬ。信長のやりようがそのことを示しておる。
甲州勢ももはや三万を数えるまでになった。この勢いを以て帝都を目指し三河の家康を抑えれば、都までの間に余の相手となる者は一人としてあるまい」
と、近年おおっぴらにしたことがないほどの自信を示した。