第四章(三増峠の戦い)‐一
永禄十二年(一五六九)の盛夏、武田諸将は躑躅ヶ崎館大広間に集っていた。
駿河攻略に取り掛かって既に半年、一度は駿府今川館に乱入しながら、駿河における支配権を確立出来なかった原因とその対策について、広く群臣の意見を聴取すべく信玄が招集したものである。
軍議の口火を切ったのは小田原北条氏と国境を接する郡内国人にして一門衆小山田左兵衛尉信茂であった。
「昨今の駿河出兵が思うに任せぬ要因は、ひとえに駿豆国境における小田原勢の蠢動が止まぬことにこそございます。氏真室早川殿が徒裸足にて駿河から落ち延びたことに、氏康公がたいそう立腹しての私戦であると、国境諸衆の口の端に上っております。
そもそも我が武田家と北条家は、越後上杉に対して常に共同対処して盟約の実を挙げて参った間柄。未だ輝虎健在、その脅威が消え去ったわけではございません。甲相が再び盟約を取り結ぶ余地は十分に残されております」
信茂はそう陳べて駿河攻めを巡る甲相越の現状認識を披露した後、
「永年北条家との交渉を担ってきたそれがしが、甲相和約再締結の任に当たりましょう」
と具申した。
しかし駿河を巡って北条家と干戈を交えて日はまだ浅く、形勢は不利だ。時期も得ないうちにこちらから和を請えば、足許を見られて不利な和約を強いられるに違いなかった。加えて、武田挟撃を目的とした相越同盟は既に締結されているのである。氏康氏政父子に、この外交関係の再考を促さなければならないだろう。
甲相同盟の再締結は、信茂が奔走したからとてそう簡単に成る和約とは思われなかった。
「そうは簡単に進みますまい」
信玄の意思を代弁するように曾根内匠助昌世が陳べると、それに対して反駁する者がある。高坂弾正忠昌信であった。
「いや、そうとも限りません。相越の不信の根は深うございます」
海津城代として永年北信の防備を担ってきた高坂弾正によれば、相越の和約は上杉有利のうちに締結されたが、輝虎は氏康氏政父子の援軍派遣要請に応じる素振りを見せず、甲相の抗争に高みの見物を決め込んでいるというのである。
上杉にとって、一朝にして武田を滅ぼすことが出来ない以上、その矛先が駿河に向くことは歓迎すべきことであった。信玄が八幡原の戦いを契機に北進策を諦めたように、輝虎は輝虎で、甲軍と再び大規模な合戦を行うことを出来れば回避したいと考えていたのである。もし輝虎が本気で武田を滅ぼそうというのなら、小田原との盟約が成立した今が絶好の機会であった。
だが輝虎はその好機をみすみす見逃して、越中方面に兵を出していた。甲相の争いを尻目に勢力拡大を目論んでいるのである。
氏康が冷静になって考えれば、武田と上杉、いずれが同盟相手として信用に値するか、明らかなはずであった。
「小山田殿の言うとおり、条理を尽くして説得に当たれば、話の分からぬ氏康公ではございますまい」
高坂弾正はそう言って結んだ。
信玄は深く考え、瞑目して身じろぎもしない。
「しかしそうは言っても再度の和約とは、如何にも虫がよすぎはいたしませんか。条理を尽くして説得と申しますが、氏真放逐の理由については既に小田原に使者を遣って説明しておりますがどうやら聞く耳持つ氏康公ではなさそうです。やはり、そう簡単に和約の再締結に応じるとは思えませんな」
こう口を開いたのは、最近領国に編入された西上野の諸衆を束ねる淺利信種であった。信種は続けた。
「気を悪くなさるな小山田殿。小田原との和約を目指すという大筋においてはそれがし、小山田殿と意見を同一にするものでござる。それがしが言いたいのは、小田原に一撃も加えることなく和を請うよりは、一度痛い目にでも遭うて貰った方が、薬が効くのではないかということです。如何でござろう」
「痛い目を見せる、とは」
信玄が信種に問うた。