第四章(駿河攻略戦)‐五
氏真とその妻早川殿は、甲軍の侵攻があまりに急速だったために徒裸足で駿府を落ち延びたといわれている。氏真はその足で重臣朝比奈泰朝籠もる遠州掛川城へと駆け込んだことは先に陳べた。その掛川城も、十二月二十七日には武田との約定に基づいて出張ってきた三河勢に包囲された。氏真は小田原の北条父子による後詰に望みを繋いだが、戦国大名としての今川氏の命運は既に風前の灯火であった。
氏真にとって幸運だったのは、俄仕立ての武田徳川の同盟が早くも破綻の兆しを示していたことであった。
年が明けた正月八日、伊那郡代穐山伯耆守虎繁が天龍川沿いを南下して北遠江に乱入したのが破綻の始まりであった。
徳川は家康以下、諸将が激怒した。
「武田は当家をみくびっておる」
「駿河は武田、遠江は徳川が分捕るという取り決めではなかったのか」
「そういえば、交渉の使者は川切りとのみ申して大井川か天龍川か、明言しておらなんだわ」
「天龍川川切りなど図々しいことはよもや申すまいと考え、遠慮したのが誤りであった」
「その遠慮に付け込むとは」
「信玄坊主めに謀られた」
「無礼なり信玄」
ともあれ、このまま穐山勢が南下を続ければ本拠地岡崎と掛川包囲陣とを結ぶ補給線は遮断されかねない。穐山勢の意図を読めない以上、家康がそのような疑念を抱くのは当然であった。家康は信玄に詰問の急使を遣った。
先般の交渉の折に、川切りとは大井川を指すものと当然の如く了解しをるところ、その、約定を違えて穐山伯耆守軍兵が遠江に乱入したのは如何なる所以によってか
家康から送られてきた抗議の文面に、信玄はまだ見ぬ家康の怒りの表情を見た気がした。
信玄は虎繁に命じて、掛川包囲陣を密かに見聞させていた。
虎繁は
「家康は若いのに似ず戦巧者と見得ます」
と評し、更に
「武田の将来を思えば遠からずこれを除く必要がございましょう」
と附言した。
虎繁が放った透破衆からの報告によれば、家康は掛川城の周辺に仕寄(塹壕)を掘らせ、厳重な包囲陣を形成する一方で駿河方面に開く搦手に、明らかにそれと分かる逃げ道を確保しているのだという。退路を城側に明示することによって、城兵が死兵と化し玉砕戦を仕掛けてくることを避けようとしていることは明らかであった。
信玄は、掛川城を囲む二十八歳の家康と、二十七歳のときに笠原清繁籠もる佐久志賀城を囲んだ自分とを比較した。
このとき信玄は、頑強に抵抗する志賀籠城衆の抗戦の意図を挫くため、小田井原まで出張ってきた上杉憲政の後詰を大いに破った。そして、討ち取った関東勢の首級三〇〇〇を城外に並べ立て、城兵に恫喝を加えたのであった。志賀城はこの措置によって戦意を失い城は陥落したが、生き残った志賀籠城衆の一部はその後、村上義清勢力下の砥石城に入って、逆に甲軍を大破したのである。
戦勝を追うあまり治世の経綸を忘れた結果として信玄の脳裡に刻みつけられた苦い経験であった。
そのときの自分と同年代の家康とを比較すると、掛川包囲陣の何と緻密であることか。
信玄は
「掛川城を囲む三河勢は家康のもと一致団結しておりこれを抜くのは容易ではない」
と判断し、なし崩し的な遠江攻略を諦め虎繁に撤退を命じたのであった。
詰問の使者に対し、信玄から
穐山伯耆守の行動は誤りだったので速やかに撤兵する
旨の返書を受け取った家康であったが、その背信行為に怒りは冷めなかった。家康はその後、武田との盟約を早々に破棄して越後の上杉輝虎と誼を通じることとなる。
五ヶ月に及んだ掛川攻略戦も、家康から示された以下の条件により開城に及んだ。
一、開城すれば城兵は助命する
一、氏真夫妻は小田原まで無事送り届ける
一、駿河攻略が成れば、駿河は今川に返還する
掛川開城に先立つ正月二十六日、駿府に在った信玄の許に
「小田原北条衆、薩埵峠に出現」
との急報が入った。
氏真が遣った援軍派遣要請に、北条氏康が応じたのである。信玄は駿河の仕置もままならぬ状態で腹背に敵勢を迎えることとなった。その不利を悟らぬ信玄ではなく、駿河に確保した江尻城を橋頭堡として、これに穴山信君を籠め、駿河支配を確立できないまま二月には帰国を余儀なくされた。
武田勢による駿河侵攻作戦はここに一旦頓挫することとなる。
信玄は駿河を巡り両面作戦を強いられ、徳川に通じた越後上杉を含めると三方を敵に囲まれる危機に陥った。この危機を脱するため、信玄はこの時期唯一の同盟者であった織田信長に対し、家康の軍事行動を制御するよう要請している。また足利将軍家から甲越和与の御内書を賜るようにとも依頼している。
信玄はその書簡の中で
周囲を敵に囲まれて、その上信長殿にまで見放されてしまっては、信玄は滅びるよりほかないでしょう
と泣き言交じりの弱音を暴露している。信長が恥を忍んで年七回もの大量の進物を甲斐に贈呈し続けたのと同様の、外聞かなぐり捨てた凄味がこの時期の信玄外交には見られる。
五月、甲軍との対陣を終えて信玄を甲斐に追い払った北条氏康は小田原に帰城し、氏真夫妻を迎えていた。氏真は氏康氏政父子を前に悔し涙に暮れながら
「祖父の代から続く縁と頼んでおりました武田に裏切られた上は、義父殿を頼るのほかなく・・・・・・」
と言ったきり絶句した。
氏真を見る氏康の目は冷厳であった。
桶狭間における父義元の不慮の死から三州錯乱、遠州忩劇に見舞われて仇討ちの軍勢を起こすことが出来なかった事情は分かるが、家名を失った者に寄せる同情はない。
だが河越夜戦の英傑氏康も、我が娘早川殿の逃避行の一部始終を本人の口から聞き及ぶや、氏真同様涙を流し、
「左様か、左様か。それはさぞ恐ろしかったであろう。よくぞ無事に還られた。もう恐ろしいことは何もない。そなたが父のもとで幼き日を過ごしたこの小田原にて、心安らかに日を過ごされるがよい」
と慈父の顔を示した後、俄に
「それにしても武田信玄。敵方に転じたとはいえ姫の足に輿を準備するは武士たる者の礼儀であろう。それを怠り我が娘を徒裸足にて奔らせるとは。断じて赦すまじ」
と吐き捨て激情を発した。
この氏康の怒りは永年の敵であった上杉輝虎との同盟という形で政治的に表出した。氏康は輝虎への書簡の中で、ことの顛末を報じた上で
信玄に対する鬱憤散じ難し
と怒りをぶちまけている。