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武田信玄諸戦録  作者: pip-erekiban
第四章
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第四章(駿河攻略戦)‐四

 だが信春はひとり頭を振った。

(いかん、いかん。それでは盗っ人同然ではないか)

 思い直した信春は宝物を運び出して空っぽになった蔵の壁板や、館の床板を将兵に命じてがさせた。そしてそれら板材を庭にうずたかく積んで、放火するように命じたのである。

「信春様、よろしいので?」

 信春麾下は不審顔で訊いた。

 彼等に対し、今川館への放火を禁じる旨伝達訓示したのが他ならぬ信春だったから、その疑問は当然であろう。

「構わん。火を放て」

 信春の号令によって、油を撒かれた板材に火が放たれ、あっという間にごうごうたる火焔を上げ始めた。信春は盛大に炎が上がる様を見て、まず手始めに赤糸威大鎧を宝物の山から力任せに引き摺り出すと、

「これなど、目の毒だ」

 と言いながら真っ先に火中に投じたのである。

「あっ!」

 信春麾下は驚きの声を揃えた。

 目の前に積まれた宝物のうちの幾つかが下賜されるものと期待していた彼等は、それが信春自身の手で次から次、火中に投じられる様を惜しげに眺めるのみである。

「汝等も同様にせよ。御屋形様からお咎めがあれば、責は全てわしが背負うよってに。但し、どうせ焼き捨てるのだからといって分捕ぶんどるはまかりならん。そのような挙に及べば容赦なく斬る。

 宝物は全て焼き捨て、灰にしてしまえ」

 信春に促され、将兵共は宝物を手にとっては火中に放り込んだのであった。

 このような事件があったので、信玄が駿府に乗り入れたとき、彼があてにしていた今川の宝物は全て灰燼に帰していた。

「どういうことか」

 部下を譴責けんせきするにしても声を荒げることが滅多にない信玄が、諸将を前に怒気を顕わにした。そこへ馬場美濃守信春が罷り出る。

「今川什宝はそれがしが部下に命じて全て焼却致しました。部下共は始め逡巡してそれがしの号令に従いませなんだゆえ、それがしが率先して宝物を火中に投じました」

 馬場美濃守が寧ろ誇るように言うので、信玄は彼を睨めつけ問うた。

「左様か。して、如何なるわけで」

「恐れながらそれがし、盗っ人の心を生じました」

 信玄は怪訝そうな顔をして

「盗っ人の心?」

 と鸚鵡返しに返すと、信春はこたえた。

「左様、盗っ人の心でございます。僭越ながらこの馬場美濃守、教来石景政と名乗る小身のころより、鑓働きを以て御屋形様にお仕え申し上げ、これまで七十余の芝(戦場)を踏んで参りましたがかすり傷ひとつ負わぬ武運に恵まれました」

 信玄は不快も顕わに

「知っておる」

 とこたえた。

 馬場美濃守ほどの者が、過去の武名を楯に失火の罪を免れようというのであろうか。そう思うと信玄の不快の度は一層強いものとなった。

「宝物を目の前に、それがし目録を焼き捨てることを思いました。さすれば宝物の一つや二つ頂戴しても他人に知られることはあるまいと考えたのです。しかしそれがしが累年武力を鍛えたのは、盗っ人を働くためではございません。重ねた武名をよこしまな行いによって汚すことは本意ではないと、宝物を手に取る寸前で思い至ったのでございます。

 今川累代の宝物は他国に聞こえるものでございます。これを奪い甲斐に持ち帰ったと聞けば、世上は御屋形様を如何に評するでしょうか」

 信春の話を聞くうちに、信玄は次第に冷静さを取り戻していった。

「盗っ人と罵る者もあろうな」

「それがしが恐れたのはそのような世上の噂でした。御屋形様が御上洛の雄図を以て累年武名を重ねられ、遂に駿河に討ち入られたのは我等宿老の知るところ。

 しかしながら今川の什物に手をつけたとあれば、御屋形様の雄図を知らぬ世上の雀は必ずや、甲斐の武田は今川の宝物欲しさに駿河に討ち入ったものよと噂するでしょう。違うなどと抗弁しても事実宝物を持ち去れば盗っ人と変わりがなく、世上の罵り嘲りを受けることは間違いございません。累年の武名も盗っ人の汚名にまみれることとなりましょう。

 御屋形様は御上洛の後、天下の政務を執らねばならぬ身なのです。盗っ人の号令になど、誰が耳を傾けましょうか。したがってこの馬場美濃守、御屋形様がかかる過失を犯す前に宝物を残らず焼き捨てた次第にございます」

 信春はそう言ってのけたあと、

「もし御屋形様が馬場美濃守過怠なりと思し召しであれば、打ち首切腹、何なりとお申し付け下さいませ。それこそ武辺一辺倒の馬場美濃守の望みとするところでございます」

 と、堂々言い切った。

 信玄は

「信春、頭を上げよ。余が間違っておった。まことに汝の言うとおりだ。

 甲州法度之次第においては軍規違犯は厳罰を以て処断する旨定めておるが、同時にこの信玄に誤りがあれば遠慮なく申し出よとも定めておる。よってこの度の信春の行いは、法度に則った諫言である。

 余は欲に塗れ、暦年の武名を危うく失うところであった」

 というと、旗本衆に振り返って

「流石は余に七歳も優る馬場美濃守信春である。一国の主になっても人後に落ちぬ。彼こそ良き侍というべきである。皆も、彼を手本とせよ」

 と馬場美濃守信春に対する賛辞を惜しまなかったと伝えられている。

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