第四章(駿河攻略戦)‐三
永禄十一年(一五六八)十二月、信玄は一万二千の軍兵を率いて駿河に雪崩れ込んだ。
氏真はかねてよりこの日に備え、有力国人庵原安房守に薩埵峠の防備を固めるよう申し含んでいた。庵原安房守は甲軍に優る一万五千の軍兵を揃え、圧倒的優位に立って信玄を迎え撃った。
氏真自身も清見寺にまで出張り、更に小田原の北条氏康氏政父子に援軍要請の使者を遣った。
数の上でも地の利でも甲軍を圧倒できるはずだった今川勢であったが、峠において対陣に及ぶや今川勢は干戈を交えるより先に後衛から潰乱し始めた。既に数多の国衆が武田に内通しており、今川諸将はそのために戦わずして退却を開始したのである。
「先陣崩れ去り甲軍駿府に迫る」
この凶報に接した氏真は清見寺から退いて、家中に残っていた有力家臣朝比奈泰朝籠もる遠州掛川城へと遁走した。
このため甲軍は、薩埵峠における対陣翌日の十三日にはさしたる抵抗を受けることもなく駿府へと殺到したのであった。
信玄は甲軍諸将に対し、
「駿府には今川の什宝が山と積まれているはずだ。戦後は軍役衆に分配するよってに、今川館にはゆめゆめ放火するな」
と下命した。
同じころ、諏方四郎勝頼は駿河府中にて自らの麾下将兵を督戦すべく自身の馬廻衆と共に諸方を駆け巡っていた。
今川の末端諸侍は、陣営が脆くも崩れ去った理由も知らず、俄に雪崩れ込んできた甲軍相手に交戦もままならず、指物や武具を棄てて逃げ回っていたので、勝頼馬廻衆のうちの一の侍が、打ち棄てられた指物を手に
「そこもとらが棄てた武具の類いは先祖伝来のものであろう。また、指物の倒れたるは指物衆の恥とするところ。今川軍役衆の誇りを打ち棄て、何処へ去ろうというのか」
と呼ばわると、指物を棄てたと思われる裸一貫に等しい今川国衆の末端侍が
「戦の勝敗は武門の常で、恥とするには当たらん。汝等とて兵馬を動かせば斯くの如き憂き目を見ることもやがてあろう」
と応じた。
勝頼主従にとって、耳を傾けて心得ともなる言葉であったが、この今川末端侍は続けて殊更に
「信玄公といえば氏真公の叔父にあたるお方。その氏真公を滅ぼそうとするは、今川累代の宝物を欲する故の所業か。追い剥ぎ同然の行いで、後世必ずや嘲りを受けるであろう」
などと負け惜しみを吐いたことから、勝頼は
「勝敗は武門の常か。全く以てそのとおりである。したがって、このように勝てるうちに勝ちを拾うのだ」
と応じ、自らの馬廻衆に対し、
「それ、誰かあの減らず口を叩っ斬って、せめてもの手柄といたせ」
と下知して、今川末端侍は敢えなく斬って捨てられたのであった。
馬場美濃守信春は駿府一番乗りを果たし、今は無人となった今川館をくまなく巡検していた。館の蔵にはなるほど、信玄の言ったとおり目も眩むほどの宝物が山と積まれていた。
綺羅をあしらった絹織物、唐国伝来の青磁白磁の陶器、黄金の装飾をちりばめた正式の赤糸威大鎧、時の帝より賜った宸翰、左文字長光などの名刀、詩譜を著した書、山河明月、幽谷を水墨でなぞった名画、黄金、銀貨、宋銭、宝玉その他続々・・・・・・。
信春は次から次へと麾下将兵が運び込んで一箇所に集積するこれら宝物を前に
「これが噂に聞く今川の宝物か」
と驚嘆し、思わず生唾を飲んだ。信玄が放火を禁じたわけだ。
信春の脳裡に一瞬、
(今や氏真は掛川に遁走し宝物の目録は我が掌中にある。目録なんぞ焼き捨ててしまえば、この宝物のうち幾つかを頂戴しても、人に知れることはあるまい)
というよこしまな考えが過ぎった。