第四章(駿河攻略戦)‐一
信玄は義信毒殺の翌月、その妻於松の方を駿河に送還した。
於松の方送還の措置は義信が謀叛を企てた上に廃嫡を苦に自害したからであって、主に武田の内情によるものである。したがってこれにより甲駿が手切れに及ぶことはない、と確認しあった両家であったが、外交儀礼上の話に過ぎない。
実際のところ信玄は義信の排除を契機に駿河を併呑する肚だったし、氏真は親今川派の中心的人物だった義信廃嫡と自害を信玄の背信行為と受け止め、その侵攻に備えている。
実際この時期、信玄は多数の今川家中衆に調略の手を伸ばしていたし、氏真は氏真で、上杉輝虎との同盟締約に奔走していた。
お互い水面下では激しく鍔を競り合っていたわけである。
手切れは誰の目にも明らかだったが、信玄は於松の方送還後一年以上も駿河討入を控えた。世間体を気にしたのでも、良心の呵責があったためでもない。
病を得て吐血したのだ。
義信廃嫡と外交方針の大転換という内外の憂慮が、病という形で信玄の身体を蝕み始めたこれが最初の出来事であった。
信玄は義信廃嫡という最大の犠牲を払って今川との手切れに及んだのである。今すぐにでも薩埵峠を越えて駿河へ乱入したかった。それが成らなかったのは、このときの病がことのほか重大だったからだ。
信玄自身死を覚悟したのか、このころ自らの花押を白紙八〇〇枚に据え、死後の備えとしている。
さて、病に伏す信玄の許に、意外な人物から書簡がもたらされた。二十七年前に駿河へ追放した父信虎からであった。今は駿河を離れて在京し、公儀に奉公している身である。
その信虎は書簡の中で、在国当時を髣髴とさせる文面を以て信玄を叱咤していた。
貴公の働きは他国にも聞こえている。甲斐の武田はいつになったら上洛するのかというのが洛中では噂の的となっている。余も汝の上洛が待ち遠しい。
さて貴公は義信を廃してまで今川と手切れしたが、未だにもたもたして駿河に討ち入ろうとしないのは何故か。
今川は内部崩壊の瀬戸際にある。余は今川家中衆のうち、武田に寝返る意志のある者を幾人か知っている。葛山氏元や朝比奈信置がそうである。
甲駿手切れして今や駿河の命運は風前の灯火である。疾く駿河へ討ち入り参らせ、今川を打ち払われるべきである。その上で上洛するならば、往年の如く太刀を振るい後加勢申し上げ、存分に馳走して進ぜよう。
粟田口にて父子の再会を果たそうではないか。
信玄は病臥しながら信虎の書簡に何度も目を通した。内通者として信虎が名を連ねている今川家中衆は、既に穴山信君を経由して武田に通じている者であって、目新しいものではなかった。
信玄が食い入るように見入っていたのは、信虎自ら武田の上洛戦に協力するという文末の一文である。
思えば信玄にとって義信は、対今川外交を巡って決裂するまでは間違いなく輝かしい武田の未来の象徴であった。武田の後継者としての権威を確立するために、あらゆる外交関係を駆使してその名に足利将軍家の通字を賜り、「義信」の諱を得たのは、歴代武田家にとって初めてのことであった。自分が出来なかったことであっても義信ならば成し得ると確信していた時期が、信玄にはあった。
その、武田の未来の象徴だった義信を自らの意志で毒殺し、その代わりに三十年近く前に甲斐から追放した乱世の亡霊が、自分の前に再び姿を現したのである。
(義信を葬った因果応報により、余は地獄へ堕ちつつある)
信玄はそう思った。
信玄は上腹部にこれまで感じたことのない痛みを感じた。鳩尾の辺りに感じる鈍痛は信玄の体力を根こそぎ奪ってしまうようであった。自らの胃の内壁が損傷し、出血しているであろうことが自覚できるほど、病態は悪いものであった。
武門に生を享けた以上、信玄にとって死は覚悟の上であり、その恐怖を克服せんがために、時に権謀術数を、時に死力を尽くして戦い、連戦勝ち抜いてきたのである。
だが病は違った。
それは難敵であって、信玄の鬼謀も、類い希な采配も通用する相手ではなかった。
駿河攻略延いては上洛が成らぬうちに、今、自分が病で死ねば、何のために義信を除いたというのであろうか。それこそ地獄というべきであろう。
(このまま死ぬわけには行かぬ。余は義信を無駄に殺したのではない)
という生への執着が、戦場では感じたことがないほど強烈に内奥から湧き上がってきた。
信玄は信虎の加勢などに期待を寄せたものではなかった。
義信を殺したなら殺したで、自分が行うべきことを実行に移さなければならないと思っただけであった。
(閻魔の裁きは甘んじて受けるとも、それは上洛を果たした後でだ)
信玄は病床から無理に身体を起こした。
奥近習がこれを扶けようとしたが、信玄はそれを制して言った。
「駿河攻めの軍議を行う。諸将を召集せよ」
それは、発病以来ついぞ出したことがない、力強い声であった。