第三章(義信廃嫡)‐三
信玄が義信廃嫡を内外に宣言したのは、同年(永禄十)十一月のことであった。信玄は鴆毒を以て義信を生害するよう密かに目付に命じ、廃嫡宣言に先立つ十月十九日、義信は東光寺において毒殺された。
(余は、間違いなく地獄に堕ちるであろう)
信玄は思った。
東光寺は諏方頼重終焉の地でもある。今から二十六年前、信玄と山本勘助が詐術を用いて投降を誘い、挙げ句切腹を強要した義兄も、この東光寺で最期を迎え、そして葬られたのだ。
信玄は自分の手が、敵勢のみならず親類縁者の血によっても真っ赤に染め上げられていることを自覚せざるを得なかった。
義信の死は、対外的には廃嫡を苦にした自害と発表された。
義信死去の翌月には於松の方が離縁され駿河へと送還された。薗は甲斐国内の尼寺に入れられて出家させられた。
信玄は
「西曲輪を破却せよ」
と命じた。
それは、義信夫妻が仲睦まじく一家団欒の時間を過ごした残照を全く消し去るためであった。於松輿入れの際に新造された真新さの残る西曲輪は徹底的に破壊された。輿入れの際に今川家からもたらされた進物等も運び出され、無造作に放り出されてゆく。
父母が薗と興じたであろう双六や、金箔を張った美しい貝殻が、曾てはそういったものに触れることさえ許されなかった、遙かに下賤の身である普請役諸衆の手によって運び出され無造作に打ち棄てられていく痛々しい光景を、信玄は身じろぎもせず見詰めていた。
近習がその身を案じて
「寒うなって参りましたのでお身体に障ります」
と勧めても、信玄は居室内に戻ろうとはしなかった。
義信たちを憐れに思ったためではない。
ただこの寒風の中に身を曝しながら西曲輪破却の普請を見詰めることによってでしか、信玄は自らの見通しの甘さを責める術がないと思ったからであった。
この一連の騒動によって、甲駿の盟約は完全に手切れとなった。
* * *
信玄は謀叛発覚と飯冨兵部切腹の後も二年間にわたり義信を生害することなく生かし続けた。
それは動かすことが出来ない歴史的事実である。
おそらく義信が生かされた二年という歳月は、信玄が義信の翻意を待つことが出来る最大限度の時間ではなかったかと思われる。信玄は当初から、二年間の時限を設けて本件の処理に当たったのではないだろうか。
事実、時代の変化は信玄が義信の翻意を無期限に待ち続けられるほど悠長なものではなかった。
対外的には信長の美濃平定戦は大詰めを迎えていたし、今川氏真は内訌の処理が遅々として進まず手一杯であった。
信玄自身も健康問題を抱えていたようである。
大病を発した信玄が、自らの死後に備えて自身の花押を据えた白紙八〇〇枚を準備したのは義信死去の翌年のことであった。
或いは義信廃嫡と殺害に伴う心理的重圧が、信玄に病をもたらしたのかもしれない。
義信の死因については、それを確定し得る文献は今日に至るまで発見されておらず、今後も発見されることは恐らくないであろう。
高野山成慶院「甲斐国供養帳」の記載を基に、飯冨兵部少輔虎昌の自害が永禄八年十月十五日のことであると判明したのは近年の研究成果である。
虎昌(十月十五日)と義信(十月十九日)。
亡くなった年こそ違えど、両者の命日が近接していることが単なる偶然とは、私には到底思われない。
義信死去のおよそ二ヶ月前、信玄は穴山、木曾、下條など国境警備に当たる一門衆を除き、甲信並びに上州の家臣団二百三十七名を信州岡城に召集して、信玄に忠誠を誓う旨の起請文提出を求めた。義信が死亡することを予想し、見計らったようなタイミングでの起請文提出に思われてならない。
因みに大量の起請文は小県郡生島足島神社に納められ、今日まで伝わっている。
義信が自ら腹を切ったという伝承もあるが、彼にその気があれば幽閉されていた二年のうちにやっていただろう。自然死説は論外である。
以上の理由から、本作では、義信の死因を父信玄による毒殺と仮定した。
信玄には判っているだけで七人の男児がいた。
そのうちの次男が疱瘡によって両眼失明の危機にあったころ、信玄は瑜伽寺本尊の薬師如来に対し、
我が子の目が見えなくなったら、自分の目と交換してでも見えるようにしてやって欲しい
という内容の願文を納めている。本来は家族思いの父親であったことが偲ばれる願文である。
我が子を毒殺しなければならない立場に追い込まれた信玄の苦衷は、現代の我々には想像も及ばない。