第三章(果てなき問答)‐三
信玄は、もはや父子の直接的な話し合いは事態をより一層悪化させるだけで、義信の翻意など到底見込めないことを悟り、自分自身の手による説得を諦めた。代わりに、義信を幽閉している東光寺の藍田恵青をはじめ、恵林寺の快川紹喜、長禅寺の春国光新など、国内の臨済名僧に義信説得を依頼した。
武田が庇護を加えている国内の臨済諸寺が、信玄のために義信説得の労を執ることを期待すると共に、信玄自身が幼少期、長禅寺の岐秀元伯和尚から治世の術を学んで独自の大局観を得たように、義信にもその素養を得ることを求めたのであった。大局に従えば今川と手切れして駿河を掠め取るより他に武田が上洛する途はないのであり、義信が名僧等の説得によりそのような大局観を得られるのではないかと期待したわけである。
しかし、既に齢二十八にも達し、武将としての経歴をいくらか積んだ義信が今更名僧の説得だからと言って自分の考えを簡単に変えることはなかった。
信玄はそうであろうとは知りながら、名僧による説得工作に最後の期待を寄せた。これが成らなければ、義信が自らの内心から考えを変化させることに期待しなければならないが、その目はないと考えるべきであった。
信玄は春国光新や快川紹喜が義信と面会したと聞けば、長禅寺或いは恵林寺に自ら足を運びその結果を事細かに訊ねたのであった。
しかし僧等の回答は、信玄の期待にはほど遠かった。
諸国の情勢を勘案すれば、甲州勢が越後を一朝にして抜くことが出来ない以上、駿河に進出して東海道を西進するのが次善の策であることは明らかだった。英邁な義信にそれが理解できないはずがない。要するに義信は、於松の方とその間にもうけた薗との間の、婦人の情に流されているだけなのである。
義信が今川との同盟に拘泥している間も、東国と西国を繋ぐ外交は着々と進展していた。
兵部切腹に先立つ永禄八年(一五六五)九月、織田信長より信玄四男勝頼への養女輿入れの縁談が正式に申し入れられた。かねてより噂に上っていた縁談であった。
この養女は、信長の妹聟苗木勘太郎の娘で信長の姪であったものを、勝頼室として輿入れするにあたり箔をつけるため特に信長養女として迎え、しかる後に武田に嫁するものであった。
織田家中における特別の措置には、この度の婚儀によって武田家とより一層昵懇の間柄になろうという信長の底意が垣間見える。
兵部切腹を挟んで同年十一月には信長養女は正式に伊那高遠城主諏方四郎勝頼の許へ輿入れした。
信玄は、大量の進物と共に輿入れしたその行列を感慨深げに眺めていた。
於福がこの光景を目にしたらどれほど喜んでくれたであろうか。
今や家中において全く地歩を失った嫡子に代わり、四郎勝頼が信玄の後継者候補の筆頭にその第一歩を踏み出した瞬間であった。
甲尾同盟締約以後、信長は信玄に対して正月、三月、五月、七月、八月、九月、十二月に決まって進物を届けた。その内訳はというと、蒔絵の箱二つのうち一つは上面に武田菱をあしらい、頭巾一つ、綿帽子二つを入れ、更に別の箱の一つには同じく蒔絵で武田菱をあしらい、「信玄公御召料」と称して小袖一重ずつを入れて、紅の緒で締めて届けた。その他、帷子、袷、小袖、巻物、肴、樽等、目も眩むような高価な品物が年七回も甲斐に届けられたのであった。
これだけの財力。
どう贔屓目に見ても、今川と織田のいずれが同盟国として頼りになるか、明らかであった。今川と織田の力関係は、今や桶狭間合戦当時とは全く逆転してしまっていた。
(或いは義元は、信長を放置しておけばこうなることを予感して、信長討伐の兵を起こしたのかも知れんな)
信玄はそう考えたとき、信長がやがて美濃を平定し、自分を出し抜いて上洛の兵を起こすことを考えた。信長は己が野望を達成するために、他国に聞こえる恥を忍んでこのような高価な進物を頻繁に甲斐に届け、この信玄を油断させようとしているに違いないと思い至ったのである。
(いよいよ駿河攻略を急がねばならん)
信玄は信長から届けられた大量の進物を目の前にして、心中に今まで感じたことのない焦りを覚えた。それと同時に、どうあっても義信事件に決着をつけなければならないという重苦しい課題に直面していたのであった。