第三章(果てなき問答)‐一
甲斐武田家の統治の中枢は、同時に謀叛の計画の中枢でもあった。
義信の身柄確保は兵部切腹に先だって行われた。
義信確保の任に当たるべく召集された在番衆は信玄より以下の如き困難な命令を受け、特に手練の侍衆が選ばれた。
「謀叛の首謀者は飽くまで飯冨兵部であり、義信の荷担の度は明らかではない。義信に傷ひとつつけることなく、縄目をも受けさせず、速やかにその身柄を東光寺へ護送せよ」
信玄近習は、その手練の侍衆を伴って義信家中が住まう躑躅ヶ崎館西曲輪に唐突に討ち入った。連夜、虎昌はじめ謀叛同心衆とともに、信玄排斥の密議を凝らしていた義信は、最近とみに遅くなった眠りを曲輪の女中衆の悲鳴によって妨げられたのであった。
義信は寝間着のまま、不意の闖入者に対し枕元の太刀を抜いて防戦しようと試みたが、刀は鞘に収まったまま、侍衆の振るう杖によって打ち落とされた。義信は謀議の露顕を悟った。
侍衆はその手練の業で、あっという間に義信とその妻於松、娘の薗を確保し、躑躅ヶ崎館よりほど近い東光寺へと護送してしまったのであった。義信確保の一報を聞いた信玄は、その任の指揮に当たった奥近習にまず
「義信に怪我はなかろうな」
と確認した。
今川を巡る外交方針で信玄と真っ向対立している義信であるが、それは飽くまで政治的見解を巡っての対立だったのであり、公的な立場を離れた一個人としてはやはり我が子の身が心配だったのである。
東光寺へ押し込められた義信に対して、他の謀叛同心衆が如何なる運命を辿ったか知らされることはなかった。なので義信は、飯冨兵部少輔虎昌を筆頭に、自らの一派が遠からず人数を率いて自分の身柄を奪還しに来るものと信じている様子であった。なぜならば義信は、東光寺に幽閉されている間も目付に対し尊大な態度を全く改めようとしなかったからである。
信玄は義信のその様子を聞いて嫡子を憐れに思った。来るはずのない後詰をあてにして絶望的な籠城戦を戦う城兵に思われたからであった。
信玄は奥近習に対し
「明日、余が自ら東光寺へ参り、義信にことの顛末を聞かせてやろう。そうすれば翻意するかもしれん」
と言い出した。
もちろん近習どもは口を揃えてこれに反対した。
「恐れながら御曹司は御屋形様に害意を含んでおります。刃物の類は後身辺より遠ざけてございますが、徒手にても打ち掛かられれば無事では済みませぬ」
「そのようなことはあるまい。父子の間柄ぞ」
信玄はそう言いながら笑い、取り合おうとしなかったが、強いて面会されるというなら警固衆をおつけなされと三枝勘解由ほか奥近習が頻りに勧めるので、信玄はそれに従い幾人かの警固を伴って義信と面会することとした。警固衆は障子が開いたときに義信の目に入らぬよう遠ざけてある。
「義信」
信玄は義信が押し込められている東光寺一室の外から、嫡子に対し声を掛けた。室内から返事はなかった。
「義信聞くが良い。兵部は切腹して果てた。汝の身柄を奪還して救い出そうという者はもはや一人としておらん」
寺域は全く静まりかえり、声を発する者は信玄の他、野山の雉があるばかりだ。
「兵部は切腹に際して、此度は兵部が曾根、長坂等と謀り、汝を担ぎ出して謀叛に及んだのだと申した。兵部の言に嘘はなかろう」
信玄は、謀叛の責任を一身に背負って果てた飯冨兵部の意図を酌んで、義信の責任を不問に付すつもりであった。義信が
「左様でございます」
と返事をすれば全てが解決するはずであった。少なくとも信玄はそう信じていた。
だが待てども義信からの返事はない。信玄はしびれを切らした。
「入るぞ」
信玄が障子を開けて居室内に入ろうとしたとき、折敷に座して待機していた警固衆が刀の柄に手をやったので、信玄はそれを制する手合図を送った。信玄が義信居室に入ると、義信は信玄に対する無遠慮な怒りの視線を向け、ただ黙って座しているだけであった。
「思ったより血色は良いな」
信玄が義信の身体を気遣って言ったひと言も、その耳には届いていないようであった。
「謀叛同心衆は全て成敗した。曾根周防は打首、長坂源五郎は放し討ち、穴山彦八郎は久遠寺に押し籠めとした」
義信はそこまで聞くと
「成敗した? 証拠は。証拠のない話なら聞きませぬ」
と自らを奮い立たせるように言った。
「証拠か」
信玄は少し間を置いた。
同心衆を成敗したというのっぴきならぬ証拠を義信に突き付け、寧ろ彼を激昂させることが訪問の目的ではなかったからである。なので信玄は
「証拠と呼べるものはないな。しかし、汝がいくら待とうとも援兵など来ないことが、証拠といえば証拠となろう」
と少しはぐらかしたようなものの言い方をした。
それにしても、と信玄は思った。
今、信玄が列挙した名は義信自身が作成した血判状に名を連ねていた謀叛同心衆であった。信玄の口からその名が語られたということは、信玄の言うとおり既に謀叛の企ては露顕し関係者一同成敗されたと考えるのが常識的なものの捉え方であった。義信は錯乱の末にそのような分別も付かなくなってしまったのかと思うと、信玄はいよいよ義信を憐れに思った。
「義信。此度のこと、汝を不問に付そうと余は考えておる。これは兵部の願い出に拠るものだ。兵部はじめ汝の閨閥は成敗したが、汝が武田の嫡男であることに変わりはない」
信玄は飽くまで義信の翻意を促すつもりであった。もし義信がこれまでの考えを捨てて今川攻略の陣頭に立つというならば、それが成ったあかつきには義信に家督を譲っても良いと考えていた。今回の騒動によって家督相続までに多少の紆余曲折を経はしたが、結果として元の鞘に収まればそれ以上は望まないとすら考えていた。