第三章(兵部切腹)‐二
昌景が密かに懊悩していたころ、信玄目付の坂本豊兵衛と荻原豊前が昨晩の飯冨兵部少輔虎昌邸宅の監察結果を復命するため信玄に目通りを願い出た。
二人の目付は昨夜半も、曾根周防や長坂源五郎を引き連れた義信が、飯冨兵部邸宅を密かに訪れていることを信玄に復命した。
太刀持ちとして信玄に近侍していた昌景はこれを聞いて最早隠し立てが出来ないと諦念し、懐にしのばせていた義信直筆書簡を震える手で信玄に示した。
信玄はこれを一読するや
「どのようにこれを入手したか」
と昌景に問うた。
苦渋の表情で昌景が入手経緯をありのまま報告すると、信玄は
「その経緯を聞いて余が思うところは、兵部はそなたの手を介して義信逆心を余に伝えたかったのであろう。そして。逆心の企てを顕かにした上で、我が身一人腹を切り、義信を救う肚に違いない。そして、そなたの手を介してかかる書簡があることを余に報せた思惑は、己が一人腹を切ってでも飯冨一族の命脈を永らえんがため。
そこまで深謀遠慮して・・・・・・」
と言ったきり絶句し、手にした書簡をはらりと落として
「余は、誠の侍をまた一人失うか・・・・・・」
と絞り出すように言った。
「御屋形様。謀叛露見した上はすぐさま飯冨兵部邸宅に追捕の兵を派遣致しましょう。兄のことをそれがしがあれこれ申し上げるのはどうかとは思いますが、御曹司逆心の企てを止めることが出来なかったのは兄の失態。追捕はどうかそれがしにお命じ下さい。急ぎ兵部邸宅にはしり、謀叛人を捕縛するか、応じなければこの手で討ち果たして参ります」
昌景は思い詰めた表情でそう言った。
信玄は
「そなたはならぬ昌景。余は神之峰城一番乗りのそなたの忠節を疑ったことは一度もない。また謀叛の企てを報せんとする兵部の苦衷を察しないものでもない。追捕は穴山左衛門大夫信君、それと武藤喜兵衛に命ずる」
と告げると、早速穴山信君を召し出し、事態ありのままを伝えた。
信君は突如命じられた難事に驚愕し、そしてしばし立ち尽くした。飯冨兵部少輔虎昌率いる赤備といえば、他国に聞こえた甲軍の精鋭中の精鋭である。これらが追捕を察知して邸宅に籠もるか討って出て来れば、自らの手の者から相当の損害が出ることが予想された。
信君は急ぎ自領に舞い戻って歴戦の軍役衆を選りすぐりながら、
「困ったことになった」
と独りごちていた。
そこへまかり出たのは信玄によって信君の相備に命じられた武藤喜兵衛であった。
「穴山様は選りすぐりの兵を召し出されるおつもりでしょうが、御屋形様は兵部が邸宅を討って出て来ることはあるまいと仰せです」
「では籠城か。いずれにしても相当の損害を覚悟せねばなるまい」
「さにあらず。兵部は討って出て来ることもなければ籠城することもなかろうとの御諚」
信君は怪訝そうな顔をした。
「では御屋形様は如何に仰せだったのか。大人しく縛に就くとも思われんが・・・・・・」
「兵部は死装束で我等を迎えるであろうと仰せでした」
相手が飯冨兵部と聞いて死闘を覚悟していた穴山信君は、そうは聞いても緊張の面持ちを崩すことなく
「そうあって欲しいものだ」
と呟いた。
武藤喜兵衛は信玄より、穴山信君相備として飯冨兵部少輔虎昌追捕を命じられたものであるが、その際信玄より
「兵部はその場にて切腹して果てるであろうから、その武辺の死に様を間近に見聞し、武士たる者は斯く在るべしと今後の参考とせよ」
と特に命じられていた。
弱冠にも及ばず実戦経験も乏しい若武者に、武士の心構えを教育する信玄の意図であった。