第三章(兵部切腹)‐一
飯冨兵部少輔虎昌は、義信より届けられた一通の書簡を思い切り寝所の畳に叩き付けた。手紙には、度重なる説得に応じて虎昌が謀叛に同心してくれたことに対する義信の謝意がつづられていた。このような書簡を認め虎昌に届けるほど、義信は虎昌の同心が嬉しかったのであろう。
だが、同心衆の血判状を作成したり、書かなくても良い書簡をわざわざ書いて寄越すなど、あからさまな証拠を残すやりように、虎昌は今更ながら
「共に謀るに足らず」
と怒りがこみ上げてきたのであった。
虎昌にとって謀叛の首尾不首尾は端から問題ではなかった。義信に同心した軽輩共の運命も、どうなろうと虎昌の知ったことではなかった。このように子供じみたやりようでは、義信の企てが水泡に帰し、同心衆が成敗されることは疑いがないことだからだ。
だが傅役として任じられた以上、義信だけは守り通さなければならなかった。それが信玄の望むことでもあると飯冨兵部には思われたからであった。
虎昌は叩き付けた義信筆の書簡を自邸の寝所に放置して、躑躅ヶ崎館へと急使を遣った。信玄近習として府第に詰める弟、三郎兵衛尉昌景を自邸に呼び出すためであった。
急使を受けた三郎兵衛尉昌景は、信玄に対し
「兄が急病に伏せ、見舞いに来いとのことですゆえ」
と告げ、主の許しを得て兄の邸宅に駆けつけた。
「兄上、三郎兵衛尉昌景、ただいま参上致しました」
昌景は虎昌は邸宅の門前で呼ばわったが応対に出た朴念仁は
「虎昌様からはお通しせよとは聞いておりません」
と、例によって融通を利かせることがなかったので昌景は
「そんなはずはあるまい。入るぞ」
と言って、虎昌寝所を訪ねると、そこは全くもぬけの殻であった。
なのでただ一通、畳の上に放置された書簡は、否応なく昌景の目にとまった。昌景は書簡を開き見て驚愕した。
先般よりの依頼、同心まことにありがたく思う。父信玄は天道に逆らい、親族の和を乱して他国を侵略し、士民を苦しめること限りなし。義を掲げ父信玄を誅することは天道にかなう行いである。兵部同心によりこの度の企て成功疑いなし。義信に無二の忠節を尽くすべし
末尾には義信署名と、飯冨兵部少輔虎昌宛名が記載されていた。
昌景はこの書簡を慌てて懐にたくし込んだ。そして、虎昌の留守を守っている小者に
「兄はいなかったので府第へ還る」
と手短に告げ、虎昌邸をあとにしたのであった。
病気と称して昌景を自邸に呼び出した虎昌は、こうなることを見越して邸宅を殻にしておいたのである。虎昌はその間に、自領に住まう百姓や軍役衆に最後の別れを告げるつもりで、領内を巡検していた。
九月に至り、領内では黄金の稲穂が重たげに頭を垂れていた。
帰邸後、虎昌は自分の寝所から件の書簡がなくなっていることを確認すると、小者に
「昌景の還るときの様子は如何であったか」
と訊ねた。小者は
「それはそれは、慌てたご様子で青ざめながら駆けだしてございました。早く御館の勤めに還らなければとでもお思いになったのでは」
と、ありのままにこたえた。
虎昌は、弟昌景の手を経て、あの書簡が信玄の手許に渡ることを密かに期待したのである。昌景経由で謀叛が露見することにより、飯冨の命脈が保たれるという深謀によってであった。
だが兄の意に反して、昌景は件の書簡を信玄に示すことが出来ないでいた。このような極めて重要な書簡をこれ見よがしに寝所に放置しながら自邸を殻にしていた兄の思惑に気づかぬ昌景ではなかった。兄は密かに義信主従の企てを信玄に報告せよと自分に暗示しているのである。
だが同時に、その行為は自分にとっては兄を裏切ることに繋がるのである。
謀叛の企てを信玄に密告すれば、虎昌の意向がどうであっても、兄を裏切ったという世評が今後の昌景の人生について回ることは避けられなかった。死ぬことが許される謀叛人よりも、寧ろ辛い立場に立たされることが考えられ、そのことを想うと昌景は暗澹たる気持になった。
加えて書簡は義信直筆であった。この書簡を信玄に提出すれば、次期当主を巻き込む家中の大騒動に発展することは間違いなかった。そのことも、昌景を大いに逡巡させた。