第三章(兵部変心)‐二
虎昌はその後も同じような時刻に義信の来訪をたびたび受けた。義信はそのたびに父信玄の政策批判を繰り返しては、決まって虎昌に同心を求めたのであった。義信の信玄批判は概ね次のとおりであった。
「父上は、犀川を挟んで長尾と長陣に在った際、自ら義元公に和睦の仲介を依頼しておきながら、その条件が気に入らぬといって和睦を蹴ろうとした。危うく天下に義父の面目を潰すところであった」
「八幡原において、わしは政虎本陣に肉迫し、これを追い詰めた。父上は麾下将兵にわしへの合力を命ずるどころか陣を動かすななどと命じ、結果政虎を取り逃がしたばかりか戦後満座の前でわしを叱責し恥をかかせた。あの折に政虎を討ち果たしておれば、今ごろ武田の版図は越前表にまで至っていたであろう」
「桶狭間において義父が討死した際に、父上が独自に仇討ちの軍を出しておれば、今ごろ氏真公は三河の小せがれや遠州の賊徒など討ち果たしていたであろう。
そうするどころか義父の敵である信長風情と同盟しようなどと、狂気の沙汰である」
「また四郎勝頼を高遠城主に任じたことも気に入らん。そもそも高遠城が統括する伊那は、わしが死闘して切り取ったものだ」
「その勝頼と信長養女の婚姻など、夢想するだに吐き気を催す」
虎昌にとって義信の言葉は一片の理もない罵詈雑言にしか聞こえなかったが、自分が信玄に代わって逐一説明すれば或いは耳を傾けるのではないかという期待から、虎昌は一つ一つに丁寧に答えた。
「犀川の長陣の折には、長尾から示された和睦条件が到底吞めぬものでございました。そのことは御曹司もよくご存じと思います。御屋形様はそれでも軍役衆の苦衷を察して、最後には旭山城を破却し和睦を受け入れました。この苦渋の決断の末に、義元公は仲裁者として天下に面目を施されたのです」
「八幡原の折には、敵の重囲に陥った御曹司を救うため、室住豊後や初鹿野伝右衛門など、名だたる将を失いました。鶴翼の陣は崩れ、典厩信繁殿、山本勘助も乱戦の中に戦死致しました。御曹司の独断専行、決して褒められたものではございませなんだ。合戦において軍規は絶対でございますぞ」
「先主の仇討ちなどというものは他国の力に頼って行うべきものではございません。たとえ同盟国が仇討ちの援軍を申し出たとしても、一度は断るのが当事国の意地というものでござろう。それを、同盟国が当事者を差し置いて仇討ちを請け負うなど、古今に例がなく聞いたことがありません。御屋形様は氏真公に仇討ちのご出馬を促しましたが、ご出馬なさらなかったのは氏真公に将器がなかっただけのこと。駿遠は遠からず他国の餌食となるは必定。その前に我等が・・・・・・」
虎昌がここまで言ったときである。義信は俄に激昂した。
「氏真公は猛き大将である。その氏真公に将器がないと申すか!」
「左様。ございません」
虎昌は臆する様子もなく即答し、義信は苛立ちを隠すことなく早口にまくし立て始めた。
「父上が速やかに仇討ちの援軍を差し向けておれば、駿遠平均して織田徳川を一蹴し、今ごろは政虎相手の無二の一戦に勝利しておったと思うと口惜しい。これが成らなかったのは父上が政虎風情に臆したからではないか」
「さにあらず。越後は政虎の許で一致団結し・・・・・・」
「だまれ兵部!」
虎昌の反駁に対し、義信は顔を耳まで真っ赤に染めて、虎昌の言葉を遮った。もはや義信は父信玄の政策が正しいかどうかではなく、ただこれに反発することのみが自己目的化しているようにしか、虎昌には思われなかった。
虎昌相手に声を荒げた義信は、己が声の大であることに驚いた様子で、しばし肩で息を吐きながら
「すまぬ兵部。本心から声を荒げたものではない」
と詫びた。そしていつものように
「きっと良い返事をもらえると信じておる」
そう言いながら虎昌の手を握って、その邸宅をあとにしたのであった。
(御曹司は今川に対する婦人の情にながされておる)
虎昌は義信の後ろ姿を、苦虫をかみつぶしたような表情で見送っていたのであった。




