第三章(遠州忩劇と三河錯乱)‐二
このころ今川家中には、
「信玄が遠江諸将を背後で操っているのではないか」
という憶測が流れていたのである。これは信玄にとっても心当たりのないことではなかった。信玄は今川に楯突いた飯尾連龍等遠江諸将の動向を見定めるべく、彼等に書状を発してもいたからだった。
国と国との境目に根を張るこれら小豪族の動向を巡って大国同士の取合(国境紛争)に発展するのが、戦乱勃発の常であった。信玄自身、隣国との取合に発展することを期待して国境の小豪族に調略を仕掛けることを常套手段にしていた。上杉政虎との一連の抗争、特に善光寺別当栗田永壽軒の帰属を巡る角逐がその好例であった。
だが遠江、駿河方面において、自らが望まぬ形で取合が発生することを信玄は嫌った。氏真が上手く内訌を処理し得て、駿河に盤石な支配権を確立するならそれはそれで良かった。
もし氏真が仕置を損じれば、遠州は蜂起した国衆の割拠する乱国状態に陥り、三河勢、或いは織田信長の侵略を呼び込むことにもなりかねない。かかる事態を恐れる小田原北条が駿河に進出することすら有り得ない話ではなかった。
そういった勢力との不期の取合に発展することを信玄は恐れたのである。
叛逆した遠江諸将に対して信玄が気のあるような書状を書き送ったのは、今川がこれらを抑えることが出来なかった場合に備えてのことであった。
他家による今川領の侵蝕を拱手傍観するよりは自らこれを併呑すること。
それは信玄にとって有力な選択肢の一つであり、氏真は見え隠れする信玄のこういった意図を警戒して、甲斐援軍の受け入れを謝絶し続けたのである。
それにしても、と信玄は溜息を吐いた。
もし信玄がそのような挙に及べば、娘を氏真室に遣っている北条氏康が黙ってはいないだろう。今川、北条の両家と武田は手切れとなり、北信策どころではなくなる。武田は上杉、今川、北条三氏による包囲に曝され、窮地に陥るに違いないのである。
三方を敵に囲まれる危機を甘受しながら、その一角を穿って活路を見出すか。或いは弱体化した同盟国を擁し、背後に不安を抱えながら難敵政虎との戦いを継続するか。信玄にとってはいずれとっても困難な決断であった。
またこういった他国の勢力以上に気懸かりだったのが、家中に確固たる地盤を築いている親今川派の存在であった。
もっとはっきりいっていまえば義信のことである。
先年の犀川対陣を契機として信玄と義信の間に走った小さな亀裂は、八幡原の戦いを境に明らかな溝となっていた。
義信がその妻於松と、間に生まれた薗に愛情を注いでいることは、今川家が盤石の支配権を確立しているうちは国家にとっても好ましいことであった。
だが、事態は急変しつつあった。
武田が越後を併呑するためには、八幡原に匹敵する大戦をあと幾度か繰り返さなければならないだろう。政虎が甲軍本営への斬り込みという形で示した祖国防衛の決意を挫くのは並大抵のことではない。
今川が弱体化して南方が不安定化した今、武田は従来の北進策を捨ててでも、他方面に活路を見出さなければ勢力の拡大を望むことが出来ない環境にあった。
諸々《もろもろ》検討した結果、矛先を向ける相手は駿河以外にない。




