第三章(遠州忩劇と三河錯乱)‐一
信玄と政虎が川中島で死闘を演じていたその頃、武田領国を南方から支えてきた駿河今川家は危機に見舞われていた。
世に言う遠州忩劇、三河錯乱の発生であった。
「日本治まりたりとても、油断するは東山義政(室町幕府八代将軍足利義政)の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」
或いは
「馬嫁なる大将」
などと、後世暗愚の将の代名詞のように揶揄される今川氏真であったが、果たして暗愚の評価のみに集約される人物であっただろうか。
彼がよく歌を詠んだことは知られている。「集外三十六歌仙」にもその歌が所収されているが、その中には武田信玄はもとより、当代でいえば北条氏康氏政父子、毛利元就のものも含まれている。歌を詠むことは当時の大名の、当然の嗜みであった。
そもそも彼が父義元の遺領を引き継いだ経緯は同情するに余りある。
永禄三年(一五六〇)五月、義元が尾張に侵攻したとき、日本国中の誰しもが今川の勝利を信じて疑ってはいなかったのである。駿遠三三カ国の大兵力が、肥沃な濃尾平野を領するとはいえ依然尾張一角の小領主に過ぎなかった織田信長に敗れ去り、あまつさえ大将頸を挙げられるなど、いったい誰が予想し得たであろうか。
敗戦は致し方ないところではあろう。寡兵よく大軍を制するなど古今に例を欠かない。
だが大将頸を挙げられるとなると話は別である。戦勝間違いなしと確信していたところに、負け戦どころか父の戦死の報が氏真にもたらされた。
だが氏真は怯むことがなかった。彼は自分が置かれた立場をよく理解して、戦死した者の跡目安堵など国内の仕置を懸命に行っている。敗戦の衝撃によって虚脱状態に陥った様子は垣間見られない。
義元戦死によって浮き足だったのは、寧ろ三遠の国衆であった。
その代表が松平元康である。
竹千代と称していた幼少の頃、松平家の今川への臣従の証として三河から駿河へ護送される道中、詐術に遭って尾張織田家にその身柄を留置された経緯があった。余談であるが竹千代はその頃に信長と旧知になっている。
紆余曲折を経て竹千代の身柄は駿河に返戻され、彼は今川家の麾下に組み込まれた。義元より偏諱を受け、「元康」の名乗りを挙げ、対尾張戦線で功名を立てること一再ではなかったという。
だが松平諸衆にとって士気の上がらぬ戦の連続であったことは想像に難くない。いくら奮戦しても、戦勝の果実は結局全て今川ひとりに帰したからである。
松平の家老衆は家督者である元康の岡崎復帰を何度も願い出たが義元存命中は許されることがなかった。
そこへもってきて義元戦死という事態に直面したのである。元康はこれを契機に今川家からの独立を企図した。今まで何度願っても許されることがなかった岡崎帰還を、敗戦のどさくさに紛れて強行したのである。名も、義元の偏諱を捨てて「徳川家康」と改め、駿河への出仕を怠り独立の気勢を示した。このため氏真と家康の間に角逐が生じて、将軍義輝は両者の調停を試みている。
独立間もない家康を試練が待ち受けていた。外寇ではない。一向宗門徒と徳川家中衆との間で生じた小さな軋轢が、国中を巻き込む大乱に発展したのである。世に言う三河一向一揆の発生であった。
徳川家中衆にも多数の一向宗信徒がおり、文字どおり国を二分して三河は大いに乱れた。後年に至り家康股肱の臣とされた本多正信なども、この時期には一揆側に与し主家康に楯突いたほどであった。
氏真にとってこの大乱は三河接収の好機であったが、事態の推移は氏真の思うに任せなかった。
今度は分国遠江で国人の離反が相次いだのだ。
義元の死を奇貨として、犬居城の天野康景、見附端城の堀越氏延、曳馬城の飯尾連龍等が一斉に蜂起した。氏真はこの内訌の処理に手一杯となった。三河奪回どころか父の仇討ちすらままならなくなってしまったのである。
信玄は今川家を襲ったこれらの災厄に関する情報を、穴山家重臣佐野主税助泰光を通じて入手していた。遠州忩劇と三河錯乱の報に接し、信玄はそれまで武田の北進策を支えてきた三国同盟の一角が崩れつつあることに危惧を抱いた。
氏真は弱みを見せることなく遠州鎮圧に奔走している。乱れた足許を固めなければ仇討ちの軍を起こすこともままならぬであろう。そのことは信玄とて重々承知していた。それだけに、氏真には早急に叛乱を鎮圧してもらい、仇討ちの軍兵を起こして今川家家督者としての器量を内外に示してもらう必要が、同盟者たる信玄にはあった。
信玄はしたがって
「援軍を派遣するので尾張に仇討ちを」
と氏真に打診した。内乱の収束を言外に督促したのである。しかし氏真はこの援軍派遣の申出を断った。
氏真の視点から見れば、内訌が未処理のうちは仇討ちどころではないという事情もあっただろう。
だが氏真が武田援軍を国内に引き入れることを渋ったのには、他に理由があってのことだった。