第三章(八幡原の戦い)‐十二
義信は一瞬気圧されたような表情を見せたが、すかさず
「政虎本陣が無防備な横っ腹を見せていたからです」
と反駁すると、信玄は更に義信を詰問した。
「粗忽者め! それこそ政虎の罠だと気付かなんだか」
「罠であろうとなかろうと、敵将の頸さえ討ち取ってしまえば勝ち・・・・・・」
「では更に問うが、汝はその政虎の頸を刎ねたか」
「打ち損じました。しかし・・・・・・」
「汝を救うために多くの軍役衆が死んだのだ。鶴翼の陣は乱れ、危うく勝ちを失うところであったのだぞ。この場で汝が軍事について口を差し挟む資格はなく、あまつさえ追撃を口にするなど片腹痛いことだ」
「それがしは確かに政虎を打ち損じました。しかし古語に曰く、勇潔以て進むには、其の潔しに与し往事を咎めず、と」
義信は「典厩九十九箇条」にも引かれた古語を持ち出して反論した。進んでことに当たろうという者があれば、その意を汲んで過去の失敗を咎めるべきではない、という意味である。
だが、義信が「典厩九十九箇条」の一節に引かれた語と知って敢えて引用した言葉は、信玄の怒りを一層烈しいものにした。
「諸衆の苦しみも知らず小才以て典厩九十九箇条の一節をあげつらうか! 思うに追撃の我意を果たさんがためであろう。信繁の霊も浮かばれぬ」
「・・・・・・」
黙り込む義信の顔に怒りと不満の表情が見る見る浮かぶ。
武田家惣領たる信玄の叱責に接して、不満を斯くもあからさまに面に出すことを許される者が他にあろうか。嫡子としての立場を鼻にかけた行動であることは誰の目にも明らかであった。
なので信玄はその表情を見るや、
「軍規に違犯し味方を危機に陥れておきながら何が不服か。思うに嫡子としての立場に安んじ、軍規に違犯してもさほどの罰は下されまいと思い上がっての所業であろう。だが、汝が家督を継ぐかどうかなど、余の知った話ではないわ!」
と怒りにまかせ大喝したのであった。
そう発言した直後、信玄は後悔した。
幼少の頃、父信虎の所有する名馬鬼鹿毛を執拗に所望した際に、父から投げつけられた暴言と全く同じ言葉を、今度は自分が嫡子に対して投げつけてしまったからである。
義信の顔から、先ほどまで浮かんでいた怒りや不満がない交ぜになったような表情が消えた。義信は一瞬にして青ざめ、能面のような顔になった。
抜き差しならぬ雰囲気の中、義信傅役の飯冨兵部少輔虎昌は、信玄と義信の間に罷り出るや
「双方おやめなされ。父子喧嘩はみっとものうございます。兎も角も、勝ち鬨の儀は御曹司なくして執り行うことは出来ません。御屋形様、どうかご容赦のほどを」
ととりなして、儀式の執行を促したのであった。
傷つき、疲れ果てた軍役諸衆を引率して信玄は、夕暮れの中を帰路に就いた。
馬上の信玄に勝者の面影はなかったが、すぐに夕闇が下りて、その表情を諸衆から隠したことに、信玄は安堵した。
この表情を鏡に映して見れば、どれだけ不安が滲み出ていることであろうか。
山本勘助と典厩信繁の死は、信玄にとって公私にわたって許容の度を超した打撃であった。軍役衆が受けた打撃は今後の北進策継続にも支障を来すに相違ないであろう。
本戦を契機に義信との間に走った亀裂も、そう簡単に修復できるものとは思われなかった。
一般に、八幡原の戦いは前半は上杉の勝利、別働隊が八幡原に到着した後半は武田の勝利と評価されることが多い。また世上では戦場に最後まで居残った方が勝者であると評された。
結果としてみれば、戦域に最後まで居残ったのは甲軍であり、その意味では確かに信玄が内外に勝利を宣言する資格は十分にあり、事実そのように喧伝した。
駿河に同盟国を置き、東海道方面からの上洛が不可能であった信玄はその後も越後攻略を諦めきれなかったものか、永禄七年(一五六四)八月には生涯最後となる上杉政虎(このころには輝虎)との対陣に及んでいるが、積極的に干戈を交えることは遂になかった。
この八幡原における激戦を経て、信玄が越後攻略に見切りを付けたことは想像に難くない。
その意味では政虎は本戦において越後防衛の本意を達した勝者と評することも出来ようが、上杉が関東に出兵すれば武田が北信で蠢動してこれを妨害する、という構図はその後も崩れることがなく、政虎にとっても不満の残る結果に終わったことは間違いない。
その後の戦国史に多大な影響を残した本戦は、やはり両者痛み分けと評するべきであろう。




