第三章(八幡原の戦い)‐十一
勝ち鬨の儀に先立って、本営に続々首の欠けた遺体が運び込まれてきた。
そのうちの一体にすがりついて泣き腫らす者があった。馬場民部少輔信春であった。
「挟撃策は我等が大いに賛同して実行した策。それが見破られた挙げ句それがしが生き残り、勘助殿が戦死するとはまことに不条理。思えばそれがし、教来石影政と名乗る小身のころより勘助殿に軍法、城取の術を学び、斯くの如き大身となれたようなもの。勘助殿がなければ、それがしなど猪武者として一生を終える身だったのだ。恩人の死を悲しまずにはおらりょうか」
馬場民部があまりに嘆き悲しむので、信玄近習として勘助の薫陶を受けた飯冨三郎兵衛尉や高坂弾正、原隼人佑も勘助の遺体に群がり取りすがって、共に声を上げて泣いた。
悲嘆に暮れているのは彼等だけではなかった。
室住豊後守虎定、初鹿野源五郎忠次等諸将の近親者、従者は各々、首のない主の遺体にすがって皆涙した。
信玄とて例外的立場にはいられなかった。
本営の幕間をぬい、一体の遺体が丁重に運ばれてきた。信玄はその首のない遺体を抱き上げた。
典厩信繁であった。
一国の大将として気丈な振る舞いに徹しなければならないことは理解している。激戦の後ならなおのことである。だが弟の死に接し、自制が利かないほど、信玄は悲嘆に暮れていた。
幼少の頃、岐秀元伯和尚の同門として競い、互いに研鑽した最も古い友でもあった信繁である。信州経略の過程で次第に主家を軽んずるようになった板垣駿河守信方を抑えることが出来たのは、この弟あってのことだった。
信繁が嫡子長老(のちの武田信豊)に宛てて遺した「典厩九十九箇条」は、漢籍たとえば「帝範」「論語」「司馬法」「三略」「後漢書」「書経」「管子」よりふんだんに語を採り、武士たる者の心構えを説いた名著として、ひとり長老のみならず、家中にも大いに勧められた。
信繁の他に抜きんでる教養と、武田の副将としての覚悟を示して余りある書であった。
これから武田がより一層勢力を拡大していく中で、信玄一人が所掌できる事務は自ずと限られてくることは明らかであった。
信玄の双肩にかかる職責のうち、相当な割合を任せるに足る人物は典厩信繁をおいて他になかった。
自らが宿願とする上洛後においても、軍征、内治ともにやってもらわなければならないことは山ほどもあった。
その片腕とも頼む弟を喪ったことは、信玄に、悲嘆とともに将来に対する不安を大いに抱かせたのであった。
信玄にとって典厩信繁と山本勘助という、創業の功臣二人を一挙に失った衝撃は大きかった。しかしその死を無駄にしないためにも、本戦における勝利を宣言しなければならない。甲軍は戦場に最後まで踏みとどまり、政虎の鋭鋒を遂に躱しきったのである。受けた打撃は大きかったが勝利を宣言する資格は十分にあった。
信玄は信繁の遺体に向かってしばし合掌した後、
「これより勝ち鬨の儀を執り行う」
と宣言した。
だが事件は起こった。
信玄がそう宣言した直後、居並ぶ諸将のうち浅傷で済んだ太郎義信が発言を求めたのだ。信玄の表情は見る見る不機嫌に歪んだ。
「義信なにか。」
「父上、勝ち鬨の儀はまだ早うございます。越軍は全く潰乱し、反撃もままならぬ体ゆえに、猛追してこれを・・・・・・」
義信がそこまで言うと、信玄は俄に
「言うな義信! 死者傷者数多あるを見て汝はまだ追撃を口にするか。余は本隊の各陣に対し決して動かず守りに徹しよと命じたはずだ。
まずは問う。その命令に違犯して自ら陣所を離れたのは何故か」
と怒気を発した。