第三章(八幡原の戦い)‐十
妻女山攻撃隊が八幡原に殺到した今、そこは甲軍による一方的な復讐の場となっていた。越軍は各々《おのおの》兜や指物を捨て全軍潰乱の様相を呈していた。甲軍将兵は逃げる敵方を追うことに夢中になっていた。それぞれが手柄を挙げんと欲し、或いは討死した親類縁者の仇討ちをとばかりに駆け上がっていった。
陣を乱している、という意味では、追う甲軍も逃げる越軍も大差なかった。勝ちに乗じてやれ手柄だのやれ仇討ちだのと敵を追う甲軍は、たったいま死んだ山本勘助が二十年前に
「蟻の群れのようだ」
と評した姿そのものであった。
こんな様子であったので、甲軍将兵は我が陣中深く食い込んできた一団が政虎主従であることに気付くことがなかった。
甲軍本陣では、信玄が次第に遠ざかる軍兵の喚声を聞いていた。信玄旗本のうち幾人かも、これを好機とみて本陣を離れ、敵兵を逐うために出払っていた。信玄周辺を護衛する旗本衆は、ひと目見て分かるほど手薄になっていた。
その時である。俄に本陣が慌ただしくなった。
「敵襲!」
誰かの叫び声が聞こえた。
本陣に残っていた旗本衆が陣幕を出て防戦に当たった。幕一重を挟んで、何者かと旗本衆が烈しく干戈を交える音が信玄の耳に届いた。
ただ一騎。
白馬に騎乗した僧形の武者が陣幕を蹴破って躍り込んできた。
彼は信玄の姿を見るなり
「関東騒乱の元兇!」
と呼ばわって白刃を馬上から振り下ろしたので、信玄は床几を立ち鉄の軍扇でこれを弾いた。
騎馬武者が振り下ろす太刀は三度に及んだ。三太刀目は、信玄の左の大袖を斬り、そのために大袖三段目以下の小札がばらりとほつれた。信玄は左上腕に熱湯を浴びたのに似た鋭い痛みを感じた。
不意の闖入者を防ぎ損ねた甲軍旗本衆は、青ざめた表情で信玄の傍らに舞い戻り、原大隅守虎吉は繰り出した鑓で僧形の騎馬武者が駆る白馬の尻を強か突くと、馬は嘶き逆立って、背中に乗せた主を振り落とさんばかりに狂奔した。
「退けッ!」
僧形の武者は甲軍旗本と斬り結ぶ麾下将兵に短く下知し一隊を手早くまとめると、一陣の疾風の如く走り去ったのであった。
先刻にも増した静寂が陣中を覆っていた。
甲軍本陣では、信玄を斬りつけたあの僧形の武者が何者であるかが諸衆の口の端に上った。
曰く、柿崎和泉守ではなかろうか、否、荒川伊豆守であろう、などと。
その声を聞きながら
(あれは政虎に相違あるまい)
信玄は口には出さなかったがそう確信していた。
名乗りも指物もなくただ一騎討ち入ってきたあの勇敢な男。越軍の敗勢が定まった中、蝟集する甲兵を押し分け果敢にも敵本営に討ち入ってくるには尋常ならざる勇気と覚悟が必要なはずであった。
あの武者の姿は、個人的な愉悦、欲望を満たそうという意思とは全く無縁で、国家のためにその代表者として、己が生命を擲つことも厭わない決意に満ち溢れているように、信玄には見えた。だから、自らを斬りつけたあの男が政虎本人であることを信玄は全く疑いはしなかった。
あのような男が在る以上、力によって越後を抜くには今後にわたって容易ではない。相当の犠牲を覚悟しなければならないだろう。それも、許容し難いほどの犠牲を。
信玄は八幡原の曠野を見渡した。
そこかしこに、首のない遺体が転がっていた。味方のものとも敵のものとも知れぬ幾千柱。
時折、風に乗った血生臭い臭気がどこからともなく漂い届いて、信玄の鼻を突いた。信玄は、眼前に広がる凄惨な光景を上回るほどの犠牲を払ってなお戦を続ける自らの姿を想像することが出来なかった。
払暁と共に始まった戦いは、夕刻頃には完全に終息した。信玄は敵を追い、ちりぢりになった味方軍役衆を呼び戻すよう指示した。
戦域に踏み止まった勝者として、勝ち鬨の儀を執り行うためであった。




